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「律法の下にいない」の意味
はじめに
「律法の下にいない」この言葉が、現代の教会に大変な混乱を招いています。
多くのクリスチャンが、これを「律法を守る状態にない」ことだと思っています。
かつての私もそうでした。「ルールの下にいない」と言う場合、「そのルールの適用されない状態にいる」と解釈するのが普通だからです。
それでも私が、「律法の下にいない」とは、「律法を守る状態にある」ことだと言ったらどうでしょう。
多くの人が、驚き、反発するのではないでしょうか。
理由を説明しますので、どうか最後まで見てください。
柔和な心で見ていただければ、きっと納得していただけるはずです。
仮・律法の下にいない
仮に、「律法の下にいない」の意味を、「律法を守る状態にない」ことだと仮定してみましょう。
その場合、次の聖句はどういう意味になるでしょうか。
ガラテヤ人への手紙
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない(律法を守る状態にない?)。
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
まったく意味が通りません。
この手紙は、「御霊に導かれるなら、肉の働きをしないはずだ」と伝えているのです。
その文脈で、「御霊に導かれるなら、律法を守っていないはずだ」などと言うはずがありません。
少なくとも、「律法の下にいない」とは、「肉の働きをしない」ことであるのは明白です。
律法の監視の下にいない
「律法の下にいない」とは、律法の監視の下にいないということです。
ガラテヤ人への手紙
3:23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。
監視はどのような人に必要でしょうか。
それは「逆らう人」にです。
実際、そのような人のために、律法はあるのです。
テモテへの手紙 第一
1:9 すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、
1:10 不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。
律法の監視から聖霊の導きへ
キリストにたどり着いた人に、もはや律法の監視は必要ありません。
ガラテヤ人への手紙
3:24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
3:25 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。
彼らは罪に支配されることがないからです。
ローマ人への手紙
6:14 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
罪とは何でしょう。
ヨハネの手紙 第一
3:4 ──罪とは律法に違反することです。
3:5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
3:6 キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。
これが「律法の下にいない人」の状態です。
律法の監視などなくとも、キリストの霊が彼らに律法を守らせるのです。
結果、律法の要求を満たすことになるというのが、聖書の教えです。
ローマ人への手紙
8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
真・律法の下にいない
「律法の下にいない」とは、律法の監視などなくとも、罪に支配されず、霊によって律法の要求を満たす状態にあることを指します。
言わば、「もう律法という師匠の下にいない」ということです。
神の御心という学問を悟り、身に付け、習慣としたということです。
ゆえに、「律法を修業した」と訳したほうがいいかもしれません。
これを踏まえて、先ほどの聖句をもう一度見てみましょう。
意味がスッキリ通るはずです。
ガラテヤ人への手紙
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない(律法を修業したのである)。
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
いかがでしょうか。
おわりに
「律法の下にいない」という言葉の意味をおわかりいただけたでしょうか。
それは、律法の監視などなくとも、霊によって律法の要求を満たす状態にあることです。
自動車免許に置き換えてみましょう。
免許を取得するまでは、私たちは教習所の下にあります。
しかし、道路交通法を学び、それに準拠した運転が認められたなら、もはや教習所の下にはいません。
自然に道路交通法を守って、それに準拠した運転ができるようになったからです。
それが「律法の下にいない」「律法を修業した」という状態です。
キリストにたどり着いた人は、もはや教習所の下にいません。
律法の文字などなくとも、神の御心を実践できる状態にあるからです。
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