自分をイスラエルだと思えない人たちへ
はじめに
クリスチャンの中には、自分のことをイスラエルだと思う人と、思わない人がいます。
現代の教会では、思わない人のほうが増えているように感じます。
その理由は主に二つあります。
一つは、中東にイスラエルという国が建国されたこと。
もう一つは、教会をイスラエルと考えることを、置換神学(代替神学)と呼んで蔑む人たちがいることです。
確かに「イスラエルは異邦人教会に置き換わった」とする教えは、正確ではありません。
しかし、「私たちはイスラエルではない」とする教えは、もっと大変な間違いを含んでいます。
このことは本当に大切な問題ですから、慎重に聖書から確認してみましょう。
結論
先に結論から見てみましょう。
聖書は、イスラエルを教会に置き換えているのではなく、また、ユダヤ人と異邦人を分けているのでもありません。
もはや区別などない、それが聖書の教えです。
もはや区別はないのです。
キリストのものであるなら、アブラハムの子孫と見なされます。また、契約の相続人と見なされます。
まずはこの聖書の言葉を、幼子のように受け取ることから始めましょう。
イスラエルとは何か
イスラエルとは何でしょう。
それは、神の民の代名詞です。
神の教えに従う人々を、聖書は神の民と呼びます。
神の民は、アブラハムが生まれる前から存在しました。
最初の神の民は、アダムです。
アダムは子孫たちに神の教えを聞かせ、守らせてきました。
ところが、やがて人々は神の教えを忘れ始めたのです。
それで神は洪水を起こし、神の教えを守るノアの家族だけを残しました。
義が回復され、しばらくは良かったのですが、人は再び神の教えを忘れ始めました。
それで神は、神の民が絶えてしまうことのないように、アブラハムとその子孫を諸国から分け隔て、民族として隔離なさいました。
アブラハムが神の教えを守る人だったからです。
そのおかげで、神の民は絶えることなく、何千年ものあいだ、神の教えが引き継がれてきました。
ところが、神の教えはまたもや忘れられてしまいました。
人々が律法主義に陥り、神の教えが機能しなくなってしまったのです。
それで、主は民族としての隔離を終わらせ、弟子たちに正しい道を教えました。
こうして民族としての隔離は終わり、異邦人であった私たちも、神の民となれるようになったのです。
血筋によるのではない
血筋によって神の民となる考え方を、聖書は否定しています。
このとおり、血筋は関係ありません。
アブラハムの信仰に倣う者こそ、アブラハムの子孫とみなされるのです。
本当のイスラエル
ナタナエルをはじめ、使徒たちは皆、ユダヤ人でした。そこに、コルネリオをはじめ、テトスなどの外国人が名を連ねました。
これこそが、キリストと一つの体となった、本当のイスラエルです。
この奥義について、聖書は次のように教えています。
繰り返しますが、置き換わったのでも、区別しているのでもありません。
もはや区別はないのです。
キリストに従うなら、どんな人でも、神の民イスラエルとなれるのです。
イスラエルの国籍
イスラエルの国籍は、人が与えるものではありません。
キリストを主として生きる人に、神が与えるものです。
キリストを知らなかったとき、私たちはイスラエルの国籍がない者でした。
ところが今は、どう言われているでしょうか。
私たちはもはや異邦人ではありません。イスラエルの国籍を持っていると聖書は教えているのです。
新しく造られた人を、神様はイスラエルと呼んでくださるのです。
それなのに、どうして多くのクリスチャンがこの祝福を否定するのでしょう。
おわりに
多くのクリスチャンが、「私はイスラエルではない!」と言い続けています。
目を覚ましてください。
キリストによって新生した私たちは、間違いなくイスラエルです。
アブラハムの子孫であり、その契約に与る人です。
どうか、もう自分をイスラエルではないなどと言わないでください。
間違った神学を捨てるときが来たのです。
聖書から確かめ、真理をつかみ取ってください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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