はじめに
聖書は、赦される罪と、赦されない罪があると教えます。
赦されない罪とは何でしょうか。
ご一緒に、聖書から調べてみましょう。
そもそも、罪とは何か
まずは、罪とは何かをはっきりさせておきましょう。
クリスチャンであっても、罪とは何かを理解していない方がおられます。
殺すな、姦淫するなとあるように、罪とは、神の律法である十戒に違反することです。
では、何もしなければ罪を犯さないということになるのでしょうか。
それも違います。
何もしない罪というものがあります。
律法の精神は、愛です。ですから、神と隣人に対して愛を行わないなら、それは罪なのです。
新しい契約
聖書は、主と新しい契約を結ぶなら、私たちの罪はもはや思い出されないと教えます。
この契約を受けるには、神の律法である十戒への同意が必要です。
神の律法を無視してきた私たちが、十戒に立ち返り、御心に添った歩みを始めること、それが悔い改めです。
この悔い改めがある限り、私たちは何度でも赦されると聖書は教えます。
赦されない罪
ところが聖書は、赦されない罪があると教えます。
赦されない永遠の罪とは何でしょうか。
ある人は、「悪霊の追い出しについて『ベルゼブルによるものだ』と人々が罵ったことだ」と教えます。
確かに、主はそのことをきっかけに語られました。
しかし、それだけでしょうか。
聖霊に対して言い逆らう者
肉の欲に従い続けること、それが聖霊に逆らうことです。
このようなことを行う者は、神の国を継ぐことはないと教えられています。
赦されない罪とは、このことです。
御霊に逆らい、罪を犯し続けるなら、その人は御国から取り除かれてしまうのです。
ここで、「律法の下にいない」という言葉にも注目してください。
文脈からわかるように、律法の下にいないとは、律法の文字などなくとも、御霊によって肉の欲から脱している状態を指します。
けっして、律法を守らない人のことではありません。
御霊によって、律法の要求は満たされるのです。
律法を守りたいという欲求がないなら、それは聖霊が宿っていない証拠です。
そのような人は、油を用意しておかなかった五人の愚かな乙女のように、戸の外に閉め出されてしまうことを覚えてください。
主はどんな罪を贖ってくださったのか
主は罪のための生け贄となって、私たちのために死んでくださいました。
それはどのような罪を贖うためだと教えられていたでしょうか。
知らずに犯した罪です。
罪のための生け贄が贖うのは、過失なのです。
続きを見てみましょう。
このとおり、故意に違反する者は、贖われません。
大切なことですので、覚えてください。
これは十字架の贖いにおいても同じなのです。
聖霊を汚す罪とは、このことです。
故意に罪を犯し続けるなら、その罪は赦されないのです。
だからこそ、主は次のように叫ばれました。
主は私たちの罪を、過失にしてくださったのです。
ご自分を殺そうとする者たちを、なおも愛し、救おうとされたのです。
この愛と憐れみを、けっしてむだにしてはいけません。
故意に罪を犯し続けること
故意に罪を犯し続けるなら、罪のための生け贄はもはやありえません。
十戒を無視したり、故意に逆らうことは、赦されることではないのです。
兄弟について、「彼は罪を犯しましたが、どうかその過失を赦してください」と祈ることはできても、「彼は十戒に従う意思がありません、どうかその罪を赦してください」と祈ることはできないのです。
十戒に逆らう人の罪は、誰も執り成すことができないことを覚えてください。
おわりに
赦されない罪とは何か、おわかりいただけたでしょうか。
それは、御霊の導きに逆らって、故意に罪を犯し続けることです。
言い換えるなら、不法の精神です。
悔い改めるなら、どんな罪も赦されます。
しかし、悔い改めず、御霊に逆らい続けるなら、罪のための生け贄はもはやありえません。
この点で、偽の確信を握りしめたクリスチャンは、とても危険な状態にあります。
なぜなら、罪を放置しながらも、永遠の命を留めていると思い込んでいるからです。
私たちに必要なのは、悔い改めと、信仰です。
些細な罪でも放置せず、主が私たちを罪から救い出し、義に生きるようにしてくださると信じて歩むことです。
このような人は、すべての罪を赦され、天の門をくぐることになるでしょう。
あなたはそうなっているでしょうか。
間違った教えを捨て、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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