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「古い契約」の本当の意味
はじめに
聖書は、「古い契約」と「新しい契約」について教えてくれます。
一体なぜ、古い契約が与えられたのでしょうか。
初めから、新しい契約ではだめだったのでしょうか。
今、古い契約とは何か、ご一緒に聖書から確認してみましょう。
古い契約
古い契約とは、モーセの書に書かれた契約のことです。
出エジプト記
19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる──
古い契約とは、神の契約を守るなら、聖なる国民となるというものでした。
その守るべき契約は、十戒だと聖書に書かれています。
申命記
4:13 主はその契約を述べて、それを行うように、あなたがたに命じられた。それはすなわち十誡であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。
「契約の中で契約を守る」というとややこしいですが、
十戒は古い契約の契約書だと思えば理解しやすいかも知れません。
さて、この古い契約には欠けがあると聖書は教えます。
ヘブル人への手紙
8:7 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。
8:8 ところが、神は彼らを責めて言われた、「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。
8:9 それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約(十戒)にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主が言われる。
古い契約の欠点、それは「人が十戒に留まることをしない」という点でした。
ヨハネの福音書
7:19 モーセはあなたがたに律法(十戒)を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。
このように、何らかの助けがなくては、人は十戒に留まることができないのです。
新しい契約
古い契約の欠けを補うために、神様は新しい契約を用意しておられました。
エレミヤ書
31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
これが新約です。
この契約は、石の板にではなく、心の板に十戒を書きつけるというものです。
そしてこの契約は、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられます。
ローマ人への手紙
3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
するともう、律法を守らなくてよくなったのでしょうか。
そんな誤解をしないように、パウロはすぐ次のように書いています。
ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
この聖句を取り去ってしまう説教者が非常に多いので、注意してください。
新約は、信仰によって律法を確立するものであることを、絶対に忘れてはいけません。
旧約時代の救い
ここで私たちは、ある思い込みを捨てなければなりません。
その思い込みとは「旧約時代の人々は、律法を行うことによって義を得ていた」という思い込みです。
そのような思い込みを、聖書は完全に否定しています。
ローマ人への手紙
3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
このことは、アブラハムやモーセらが、古い契約によって救いを得たのではないという事実を示しています。
すると彼らは、どうやって義とされたのでしょうか。
ローマ人への手紙
4:1 それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
4:2 もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
4:3 なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
今も昔も、救いの方法は同じです。
「イエス・キリストを信じる信仰」それ以外の救いは、人間に与えられていないのです。
使徒の働き
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
すると「イエス・キリストはまだ存在していなかった」という人がいるでしょう。
それは多神教の教えが教会に忍び込んでいるからです。
神は唯一です(第一テモテ2:5)。
その唯一の神が、地上に来られたのです(ピリピ2:6)。
それがイエス・キリストであることを覚えてください。
アブラハムはじつにこの方を信じたので、義とされたのです。
古い契約の必要性
今も昔も、古い契約によって救われた人は一人もいません。
ではなぜ、神様は、誰も義とされることのない欠けのある契約を、わざわざ人に与えたのでしょうか。
それは、古い契約が、新しい契約に入るために、どうしても必要だからです。
ガラテヤ人への手紙
3:24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
古い契約が与えられた理由は、私たちをキリストに連れて行くためだったのです。
よく見てください。
信仰によって義とされるために、律法が必要だと聖書は教えているのです。
その理由の一つは、
律法がなければ、罪とは何かを知ることができないからです。
そしてもう一つ、
律法を守らなければ、自分にキリストが必要であることを悟れないからです。
だからこそ、古い契約が与えられたのです。
罪人という認識がなければ、誰も赦しを受けることはできません。
律法を守る力が微塵もないことを悟らなければ、心の底から助けを求めることはできません。
この二つを本当に悟ったとき、人は神とのつながりを求め、神はその求めに応じてくださるのです。
あの取税人は、まさにこの手順を踏んで義とされました。
ルカの福音書
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
律法を無視する人に、このような態度は決して現れません。
だからこそ、「信仰によって義とされるために、私たちをキリストに連れて行く養育係」と書いてあるのです。
養育係を取り戻しましょう
先ほど確認したように、律法は、私たちをキリストに連れて行く養育係です。
それなのに、この養育係に出会っていない人の、なんと多いことでしょう。
今一度、思い込みを捨てて、聖書を読んでみてください。
救いの方法は、今も昔も同じなのです。
どのような人も、古い契約から始まって、新しい契約に至るのです。
申命記
29:14 わたしはただあなたがたとだけ、この契約と誓いとを結ぶのではない。
29:15 きょう、ここで、われわれの神、主の前にわれわれと共に立っている者ならびに、きょう、ここにわれわれと共にいない者とも結ぶのである。
古い契約を結ぶのは、当時の人たちだけではありません。
神の民となる人は誰でも、この契約を結ぶ必要があります。
「古い」「新しい」とは、時代のことを指しているのではありません。
人が最初に神と結ぶ契約を「古い」、
次に結ぶ契約を「新しい」と言っているのです。
まず、神の律法である十戒に服従する。
次に、十戒を守るためにはキリストが必要であることを知り、信仰によって心の板に十戒を書きつけてもらう。
この二つの手順を踏まなければ、決して神の民となれないことを覚えてください。
おわりに
現代、「キリストに連れて行く養育係」を持たない教会がたくさんあります。
彼らは「信じるだけ」という極端な教理を掲げ、盲目的に歩んでいます。
今、幼子のようになって、聖書の言葉に目を開いてみましょう。
どんな人が、キリストを知っていると書かれているでしょうか。
ヨハネの手紙 第一
2:3 もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。
2:4 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。
2:5 しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。
2:6 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。
2:7 愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。
ここに弁解の余地は一切ないはずです。
今、聖書を信じる者となって、本当の恵みを受け取りましょう。
ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
こんなにもすばらしい恵みが、ほかにあるでしょうか。
十戒を心の板に書きつけてもらうなら、どれほど理想的な人になれるでしょう。
この恵みを受け取って、天の住人にふさわしい生き方を始めましょう。
そのような人を、主は迎えに来てくださるのです。
このブログを信じる必要はありません。
ただ、聖書を信じてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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