偽物クリスチャンだった私
はじめに
私は長年、偽物のクリスチャンでした。
聖書は、このような偽クリスチャンについて、はっきりと教えています。
私たちが滅びないために、主はこれらの言葉を残されたのです。
今日、慎んで、主の言葉を受け取りましょう。
罪についての基準
イエス様は、罪について、次のような基準を語られました。
このような言葉について、十字架の贖いのゆえに、守らなくてもよくなったと私は思っていました。
「これらは人には不可能な基準だから、赦してもらうしかないことを教えるために、イエス様はこう言われたのだ」そう教えられてきたのです。
しかし、本当にそうでしょうか。
兄弟を憎む者
弟子たちはどう認識していたでしょう。
ヨハネの手紙が、このことについて詳しく語っています。
イエス様が語られた基準を、弟子たちはそのまま受け取っていることに注意してください。
そればかりか、この基準に従っていない人を「偽り者」と呼んでいるのです。
私が偽物のクリスチャンであった理由はこれです。
憎しみを、当たり前の感情の一つとして受け入れていたのです。
心においても戒めを守ること
聖書は、心においても十戒を守るようにと教えています。
十戒が心において守られていないなら、それは偽クリスチャンであり、永遠の命を留めてはいない、と聖書は教えているのです。
本物の教会と、偽物の教会
聖書の基準に同意していないなら、それは偽物の教会です。
「兄弟を憎んだところで、永遠の命は失われない」「あなた方の救いは確定している」そのように教える教会は、偽物です。
本物のクリスチャンは、些細な憎しみさえも、放置しません。彼らは熱心に悔い改め、二度とそのような罪を繰り返さないために、常に主の助けを求めているのです。
そのような人たちを見たとき、私は自分が偽物であったことをはっきり悟りました。
信仰の吟味
けっして、偽物として見捨てられてはいけません。
本物のクリスチャンは、世の人々とはまったく違う生き方をしています。
彼らは、些細な罪さえも放置せず、熱心に祈り求めているのです。
自分の中に悔い改めていない罪がないかどうか、心を探り、聖霊の導きを請うているのです。
このような人は、けっして油を失うことはありません。
しかしそうしないなら、私たちから油はなくなってしまうでしょう。
たとえ教会に属していても、聖霊を失ってしまうなら、その人が天国へ行く保証は何もないのです。
おわりに
十戒を心において守らず、兄弟への憎しみを放置するなら、その人は偽り者だと聖書は教えます。
まずは、自分が偽クリスチャンになっていないかどうか、聖書から確認してみましょう。
心の罪を放置していたことを告白し、悔い改めるなら、主は喜んで私たちを赦してくださるでしょう。
また私たちが求め続けるなら、主は喜んで助けをお与えくださるでしょう。
そうして瞬間瞬間を、主を必要としながら歩んでいくのです。
多くのクリスチャンが、間違った教えのために、偽クリスチャンとなっています。
今、聖書の教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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