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あなたはキリストの弟子ですか
はじめに
ずばり尋ねます。あなたはキリストの弟子でしょうか?
このことについて、教会で意図的に教えられていないように感じます。
そのため、自分がキリストの弟子かどうか、はっきりと答えられないクリスチャンが増えています。
これではいけません。
今、聖書が何と教えているか、ご一緒に確認してみましょう。
弟子とは
聖書は、信仰を受け入れた人を、弟子と呼んでいます。
使徒の働き
6:7 こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。
そしてあるときから、弟子のことをクリスチャンと呼ぶようになったのです。
使徒の働き
11:26 彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。
これでわかるように、弟子とは、クリスチャンのことです。
「弟子になる」というのと、「クリスチャンになる」というのは、同じ意味であることを覚えてください。
誰の弟子となるのか
私たちは、誰の弟子となるのでしょうか。
聖書は次のように教えています。
マタイの福音書
23:10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
私たちの師はただひとり、キリストだけだと聖書は教えています。
けっして、私たちは牧師や神学者の弟子となるのではありません。
教師の賜物を持った人は、このことを教えなければなりません。
すなわち、どうやったらキリストの弟子となれるか、それを教えることが、教師の役割なのです。
どうやったらキリストの弟子となれるか
イエス様は「弟子となる方法」を何度も語っておられます。
これは「クリスチャンとなる方法」と同じ意味であることを思い出しながら、厳粛に読んでみてください。
ルカの福音書
14:26 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
ルカの福音書
14:27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
ルカの福音書
14:33 それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。
つまり、何もかも捨てて従う信仰がなければ、クリスチャンにはなれないと言っているのです。
このことは、教会できちんと教えられているでしょうか。
何もかも捨てて従う信仰
天国は、私たちがすべての財産を投げ打ってでも手に入れる価値のあるものだと主は言われました。
また、私たちはすべての人から憎まれ、殺される者もあるが、髪の毛一すじさえ失われないと言われました。
何を食べようか、何を飲もうかと思い煩う必要はないと言われ、やがて迎えに来ると言われました。
これらの教えを信じるなら、私たちは何もかも捨て、安心して従うことができるはずです。
私たちが不信仰なのは、これらの教えから逃げ回っていたからではないでしょうか。
主の再臨が間近に迫った今、この不信仰から立ち返り、心を雄々しくする必要があります。
ヨハネの黙示録
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。
信じる者になりましょう
本当の教えをつかみ取り、弟子となる最後の機会が来ています。
ヨハネの福音書
8:31 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
8:32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
私たちはもう、臆病の霊に支配される必要はありません。
命の心配をする必要のない、本当の自由が与えられているのです。
この自由を正しく行使して、主の栄光を現しましょう。
ヨハネの福音書
13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
ヨハネの福音書
15:8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
私たちが本当の弟子となることで、人々に光が差し、主は栄光をお受けになるのです。
人々に光が届かないのは、教会が「弟子となる方法」を正しく教えなくなったからではないでしょうか。人々が去って行くことを恐れて、生ぬるい教えをするようになったからではないでしょうか。
この変わり果てた教会の姿を、主はどう見ておられるでしょう。
おわりに
キリストの弟子とは、クリスチャンのことであり、弟子でないなら、クリスチャンではありません。
だからこそ、どうやったら弟子となれるのか、厳粛に耳を傾ける必要があるのです。
あなたは心から、キリストにはすべてを捨てて従う価値があると信じているでしょうか。
キリストが私たちの罪のために死に、葬られ、三日目によみがえったと信じるなら、この方が私たちをもよみがえらせてくださることを信じられるはずです。
それなら、一体何を恐れ、何を心配する必要があるでしょうか。
信じる人は臆病の霊に縛られません。もはや死から自由になっているからです。
あのダニエルのように、またステパノのように、生きるにしても、死ぬにしても、主の栄光のために自分を使い尽くしていいのです。
目を覚まし、聖書の正しい教えを受け取ることを願います。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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