見出し画像

愛があればそれでいいのか

はじめに

キリストの律法はただ「愛」であり、それによって十戒じっかいは守らなくてよくなった

かつての私はそう教えられ、これをみにしていました。

しかし、本当にそうでしょうか。

これは大切なことですから、ご一緒に聖書を確認してみましょう。

大切なのは愛であり、十戒じっかいではない?

キリストの律法はただ「愛」であり、それによって十戒じっかいは守らなくてよくなった

これを具体的に言うと、次のようになります。

神を愛してさえいれば、神のほかに神があってよいし、偶像を拝んでもよい。神の名をみだりに唱えてもよいし、神と過ごす日を聖別しなくてもよい。
また人を愛してさえいれば、その人を殺したり、姦淫かんいんしたり、盗んだりしてもよい──

もうおわかりかと思いますが、そんなことは不可能です。
なぜなら、神と隣人への愛を教えるものが、十戒じっかいだからです。

ヨハネの手紙 第二
1:6 父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである

するとある人はこう言います。十戒じっかいは廃されたが、神の原則は残っているのだ」

そうまでして十戒じっかいを否定する理由は何でしょう。

十戒じっかいこそが原則ではありませんか。

どうして、わざわざ十戒じっかいを廃して、九つの戒めだけを守ろうとするのでしょうか。

愛と十戒じっかいは切り離せない

愛と十戒じっかいを切り離すことはできません。

ローマ人への手紙
13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する
13:10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである

「殺したり盗んだりしながら人を愛せる」と思うクリスチャンはさすがにいないでしょう。

それなのに、「安息日を聖別しなくても神を愛せる」と思っているクリスチャンが大勢います。

今、真剣に考えてみてください。

創世記に書かれたように、アダムのときから、しゅはこの日を聖別され、自ら休まれたのです。この日を祝日にするためです。

安息日は、しゅと私たちとの間の記念日です。
私たちが創造主を礼拝しているかどうかは、この安息日で確認できるのだと聖書は教えます。

エゼキエル書
20:20 わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである

十戒じっかいを廃して、九つだけを守ろうとすること

十戒じっかいは廃されたが、九つの原則だけは有効である。

それは結局のところ、安息日を否定したいだけなのです。
日曜礼拝の正当性を失いたくないという、人の都合が、そうさせているのです。

確かに、日曜礼拝は、何百年も守られてきた、キリスト教の代名詞のような習慣です。

けれど聖書は、その前日こそが、弟子たちの休んだ安息日だとはっきり教えています。

ルカの福音書
23:55 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。
23:56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ
24:1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。

今、何を捨ててでも、聖書に従うかどうかが問われています。

一度、謙遜になってみてください。
安息日を守りたくないという心がありませんか?
そのために、イエス様の教えを見逃してはいませんか?

マルコの福音書
2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

ルカの福音書
6:5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。

マタイの福音書
24:20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ
24:21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。

ご自身で制定された日を、しゅが否定するはずもありません。
しゅが否定したのは、安息日に安息を得ず、律法主義的に守ろうとしたことにほかなりません。

日曜礼拝

日曜日に礼拝すること、それ自体が悪いのだと言っているのではありません。

聖書に書かれていない日曜礼拝、これを必要以上に高めようとする人の心が、聖書を否定することにまでつながっていることに気づいてほしいのです。

長年の習慣は、本当に聖書よりも優先されるのでしょうか。
それなら、パリサイ人は叱責されなかったでしょう。

「九つは守り、一つだけは守らなくてよい」
このようなことを、本当に言い続けてもいいのでしょうか。

マタイの福音書
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう──

もう、破るように教えてはいけません。
戒めを破ったり、破るように教える者は、燃える炉に投げ込まれると書いてあるからです(マタイ13:41)。

まずは、「安息日は人のためにある」と言われたしゅの言葉を、素直に受け入れることから始めてみませんか?

何もかも捨ててしゅに従う人だけが、しゅにふさわしい人だからです。

おわりに

「愛があればそれでいい」確かにそうです。

ただし、それが本物の愛ならばです。
もしも、安息日を除外するためにそう発言していたのであれば、しゅと相談する必要があります。

本物の愛とは、人の感情ではありません。
十戒じっかいを守ることだと聖書は教えます。

ヨハネの手紙 第一
5:2 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである──

神の戒め(エントレー)。これが本当にモーセ律法(ノモス)とともに廃されたかどうか、今一度、聖書を確かめてみてください。

コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒め(エントレー)を守ることである

間もなくしゅが来られます。
この方に、すべてを捨てて従う価値を見いだしていますか?

あなたがこの記事に出会ったのは、偶然ではありません。
考えを変えてしゅに従うことは、本当に美しいことです。
今日という日のうちに、心の戸を開いて、しゅに祈ってみましょう。

聖書に立ち返る最後の機会が来ています。
立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)

こちらの記事も参考にどうぞ。