愛があればそれでいいのか
はじめに
キリストの律法はただ「愛」であり、それによって十戒は守らなくてよくなった。
かつての私はそう教えられ、これを鵜呑みにしていました。
しかし、本当にそうでしょうか。
これは大切なことですから、ご一緒に聖書を確認してみましょう。
大切なのは愛であり、十戒ではない?
キリストの律法はただ「愛」であり、それによって十戒は守らなくてよくなった。
これを具体的に言うと、次のようになります。
神を愛してさえいれば、神のほかに神があってよいし、偶像を拝んでもよい。神の名をみだりに唱えてもよいし、神と過ごす日を聖別しなくてもよい。
また人を愛してさえいれば、その人を殺したり、姦淫したり、盗んだりしてもよい──
もうおわかりかと思いますが、そんなことは不可能です。
なぜなら、神と隣人への愛を教えるものが、十戒だからです。
するとある人はこう言います。「十戒は廃されたが、神の原則は残っているのだ」
そうまでして十戒を否定する理由は何でしょう。
十戒こそが原則ではありませんか。
どうして、わざわざ十戒を廃して、九つの戒めだけを守ろうとするのでしょうか。
愛と十戒は切り離せない
愛と十戒を切り離すことはできません。
「殺したり盗んだりしながら人を愛せる」と思うクリスチャンはさすがにいないでしょう。
それなのに、「安息日を聖別しなくても神を愛せる」と思っているクリスチャンが大勢います。
今、真剣に考えてみてください。
創世記に書かれたように、アダムのときから、主はこの日を聖別され、自ら休まれたのです。この日を祝日にするためです。
安息日は、主と私たちとの間の記念日です。
私たちが創造主を礼拝しているかどうかは、この安息日で確認できるのだと聖書は教えます。
十戒を廃して、九つだけを守ろうとすること
十戒は廃されたが、九つの原則だけは有効である。
それは結局のところ、安息日を否定したいだけなのです。
日曜礼拝の正当性を失いたくないという、人の都合が、そうさせているのです。
確かに、日曜礼拝は、何百年も守られてきた、キリスト教の代名詞のような習慣です。
けれど聖書は、その前日こそが、弟子たちの休んだ安息日だとはっきり教えています。
今、何を捨ててでも、聖書に従うかどうかが問われています。
一度、謙遜になってみてください。
安息日を守りたくないという心がありませんか?
そのために、イエス様の教えを見逃してはいませんか?
ご自身で制定された日を、主が否定するはずもありません。
主が否定したのは、安息日に安息を得ず、律法主義的に守ろうとしたことにほかなりません。
日曜礼拝
日曜日に礼拝すること、それ自体が悪いのだと言っているのではありません。
聖書に書かれていない日曜礼拝、これを必要以上に高めようとする人の心が、聖書を否定することにまでつながっていることに気づいてほしいのです。
長年の習慣は、本当に聖書よりも優先されるのでしょうか。
それなら、パリサイ人は叱責されなかったでしょう。
「九つは守り、一つだけは守らなくてよい」
このようなことを、本当に言い続けてもいいのでしょうか。
もう、破るように教えてはいけません。
戒めを破ったり、破るように教える者は、燃える炉に投げ込まれると書いてあるからです(マタイ13:41)。
まずは、「安息日は人のためにある」と言われた主の言葉を、素直に受け入れることから始めてみませんか?
何もかも捨てて主に従う人だけが、主にふさわしい人だからです。
おわりに
「愛があればそれでいい」確かにそうです。
ただし、それが本物の愛ならばです。
もしも、安息日を除外するためにそう発言していたのであれば、主と相談する必要があります。
本物の愛とは、人の感情ではありません。
十戒を守ることだと聖書は教えます。
神の戒め(エントレー)。これが本当にモーセ律法(ノモス)とともに廃されたかどうか、今一度、聖書を確かめてみてください。
間もなく主が来られます。
この方に、すべてを捨てて従う価値を見いだしていますか?
あなたがこの記事に出会ったのは、偶然ではありません。
考えを変えて主に従うことは、本当に美しいことです。
今日という日のうちに、心の戸を開いて、主に祈ってみましょう。
聖書に立ち返る最後の機会が来ています。
立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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