赦しに関する本当の教え
はじめに
私たちの信じる神様は、赦しの神様です。
どのような罪人も、この方のもとに来れば、赦していただけます。
そうして天国への道が開かれるのです。
この赦しについて、多くの教会で次のように教えられています。
「私たちの罪は、行いに関係なく赦されます。その赦しが取り消されることはありません」
一方、イエス様はこう言っています。
無条件の赦しと、条件付きの赦し。
一体、どちらが正しいのでしょうか。
聖書の教える赦し
イエス様は、天国がどのようなものだと教えているでしょうか。
イエス様の教えにぶれはありません。
兄弟を赦さないなら、あなた方も赦されない。これが聖書の教えです。
それなのに、教会は、いつしか耳障りの良い教理で、聖書を上書きするようになってしまったのです。
これではいけません。
教会が聖書を否定するようになったら、人類はどのようにして真理を取り戻すのでしょうか。
塩が塩気をなくしたら、もうおしまいです。
「いろんな聖書解釈があっていい」という言葉は、寛容に聞こえるかもしれません。
けれど、それこそが真理を破壊する言葉なのです。そうやって私たちは、ついに主を否定するところまで来てしまったのです。
もう、こんなことを続けてはいけません。
主の教えを回復しましょう。
赦さない者は、赦されない。
それが聖書の教えです。
なぜ赦す必要があるのか
なぜ、赦さない人は、赦されないのでしょうか。
私たちが兄弟を赦さなくても、主が無条件に私たちを赦してくださるわけにはいかないのでしょうか。
それはこう言っているのと同じなのです。
「私たちはサタンに支配されたままでいいです。ただ赦してくれるだけでいいです」
神様は、私たちをそのような状態でいさせたいとは思っていません。
だからこそ、赦しなさいと言われるのです。
そうして、私たちがサタンの束縛から自由になることを願っておられるのです。
赦しと悔い改め
赦しと悔い改めは、表裏一体です。
悔い改めのないところに赦しはなく、赦しのないところに悔い改めはありません。
赦さないことは、すなわち相手を憎んでいることにほかなりません。
それは殺人の罪であり、永遠の命を失うことだと聖書は教えています。
悔い改めなしの赦しは、悪魔のわざです。それは罪の許容です。罪を犯してもよしとすることであり、人を滅びに向かわせることです。
もし私たちが悔い改めなしに赦されるならば、私たちは罪悪感なしに罪を犯すようになってしまうでしょう。
実際、間違った教えのせいで、そうなっている人がいるのではありませんか?
「悔い改めよ」
このシンプルな教えを、私たちはもう一度回復し、宣べ伝えなければなりません。
悔い改めを宣べ伝えるには、まず私たちが赦す者とならなければいけません。
赦しのコツ
どうしたら赦せるでしょうか。
聖書から、三つのコツを引き出すことができます。
一つ目は、「私も同じ罪人だ」と考えることです。
聖書は、すべての人が罪人なのだと教えます。
そのとおり、私たちはひどい罪人でした。それを思い出すなら、相手のことも赦せるはずです。
けっして、自分が主に赦されたことを忘れてはいけません。
二つ目は、「同じ立場だったら、私もそうなっていた」と考えることです。
もしあなたが、相手と同じ生い立ち、同じ教育、同じ環境に育っていたらどうでしょう。
「それでも自分はそんなことをしなかった」と言える人がいるでしょうか。
いいえ。同じ立場だったら、私たちは必ず同じ失敗をするでしょう。
このことを理解するなら、相手を赦せるはずです。
三つ目は、「それ以上に私はひどいのだ」と考えることです。
人から誤解されたり、ありもしない噂を流されたりすると、私たちは憤ります。
けれども、神様の目から見た私たちは、その噂より何倍もひどいのではありませんか?
それを認めるなら、赦せるはずです。「私はもっとひどい者です」そう言って、へりくだることができるはずです。
おわりに
人を赦さないなら、私たちも赦されることはありません。
教会の教えが聖書と違うなら、聖書を信じなければなりません。
主の言葉を軽んじる人は、天国には一人もいないことでしょう。
かつてバプテスマのヨハネがしたように、現代の私たちは、罪の赦しを得させる悔い改めを、もう一度宣べ伝える必要があります。
これはエリヤの働きと呼ばれるものです(マタイ11:14、マルコ9:12)。
この働きがなければ、主は来られません(マラキ4:5)。
私自身は、どの団体、教派にも所属しておりません。また、何者でもありません。
取るに足りない者が、こうしてお伝えしているのです。
あなたも、この働きに参加できます。
このことを誰かに伝えるだけでも、主のお役に立てるのです。
もちろん、文章をコピーして使っていただいても構いません。
偽りの神学を捨てて、聖書の教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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