はじめに
聖書には、食物についての教えがたくさん出てきます。
これについて、現代の私たちはどう考えればいいのでしょうか。
クリスチャンのあいだでも、様々な意見があるようです。
このことについて、聖書から慎重に確認してみましょう。
様々な食物規定
時代によって、人類には様々な食物規定が与えられてきました。
最初の食物規定は、アダムに与えられたものでした。
それから、ノアに与えられました。
そして、モーセに与えられました。
問題は、この最後の食物規定について、私たちがどう考えるべきか、ということです。
モーセ律法と異邦人
教会ができて間もないころ、ユダヤ人信者と異邦人信者のあいだには、様々な意見の衝突がありました。
その中で、異邦人信者にもモーセ律法を守らせようとする人々が現れました。
これについては、結論が出ています。
食物規定と異邦人
このことが起こる前に、主はペテロを通して教えておられました。
ある人は、これは食物規定の廃止を告げるものではないと言います。
そうかもしれませんが、注意してください。
少なくとも主は、食物規定と異邦人の救いを、関連付けて教えているのです。
というのも、割礼と食物規定は、ユダヤ人と異邦人を隔てるために、ひときわ大きな役割を担っていたからです。
異邦人に救いが及んだとき、主が食物規定と異邦人の救いを関連付けて教えるのは当然です。
ペテロはこれを受け入れて、異邦人とともに食事をするようになりました。
ところが──
ペテロの失敗
異邦人と食をともにするようになったペテロですが、人目を気にして、彼らの食卓から離れたのです。
パウロはこれを非難しました。
「異邦人のように」「ユダヤ人のように」とは、文脈から食事のことについてだと分かります。
食物規定は益をもたらさない
モーセ律法を自主的に守ることは、けっして悪いことではありません。
けれども、それが救いに関わるかのように歩むこと、また、そう教えることには、注意しなければなりません。
ある人は、これは聖い食べ物についてのみ述べられているのだと言います。
そうかもしれませんが、文脈から、そうでない食べ物について「きよめられる」と解釈するのが自然です。
これらのことからいえる結論は一つ。
食べ物のことで救いの御業が左右されるように考えてはいけない。
それが聖書の教えです。
食物のことで誰かを苦しめるなら、愛はない
もう、食べ物のことで思い煩うのはやめましょう。
自主的に守りたい人は守る、それだけです。
守る人を蔑んではいけないし、守らない人を裁いてもいけません。
(中立の立場で書いておきますが、「どんな食物でもきよいものとされた」と訳さない聖書もあります)
おわりに
食物規定に関して、何かヒントは得られたでしょうか。
ここに書かれたことを鵜呑みにせず、皆さんの目で聖書から確かめてみてください。
聖書によれば、罪になるか、ならないかは、人によって異なるようです。
また、他人への配慮が必要なことも教えられています。
真理は、聖書から受け取るしかありません。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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