罪とは何か、あなたは答えられますか
はじめに
いきなりですが、罪とは何か、あなたは聖書のとおりに答えられるでしょうか。
クリスチャンであっても、これを正しく答えられない人がいます。
聖書のいう罪とは何か、ご一緒に確認してみましょう。
罪とは何か
罪とは何か、その答えは聖書にはっきりと書いてあります。
不法(アノミア)とは、法に背くという言葉です。
法とは当然、神の律法のことです。
ですから、次のように訳されているのです。
さて、こんなにもはっきりと書かれた罪の定義を、私たちは無視してはいなかったでしょうか。
罪とは、律法に違反することです。
具体的には、殺すな、姦淫するななどの戒め、すなわち十戒に違反することが罪です。
これはモーセ律法とは区別されます。
私たち教会にとって、これは都合の悪い事実です。
というのも、私たちは十戒の安息日を無視して、日曜礼拝を行ってきたからです。それどころか、日曜礼拝に従わない人々を、大量虐殺してきた歴史もあります。
そのせいで、罪とは何かを、堂々と伝えることができないのです。
これはとても重たい悩みです。
しかし、このままでいいのでしょうか。
悔い改めよ、そう聖書は教えます。
私たちはへりくだって、神の前に悔い改めるべきではないでしょうか。
不法についての正しい認識
不法について、私たちは正しい認識を回復しなければなりません。
先ほど確認したとおり、不法(アノミア)とは、神の律法である十戒に違反することです。
そして、「不法を行う者は天国に入れない」とイエス様は教えます。
これが聖書の教えです。
「教会の教えとぜんぜん違う!」そう思った方もいるでしょう。
そうなのです。
今や多くの教会が、聖書とぜんぜん違う教えを語っているのです。
不法を行う者は取り除かれる
律法を守らない者がことごとく取り除かれることを、主ははっきりと教えています。
これは未信者のことではありません。私たちクリスチャンのことです。
律法を無視するクリスチャンが、御国から取り集められて、火に投げ込まれると教えられているのです。
十字架のおかげで、罪を犯してもよくなった?
本来、私たちは、律法の行いによらず、信仰によって罪から解放され、義を行う者になるはずでした。
それなのに、私たちは律法に服従せず、日曜礼拝を擁護し、安息日と十戒を汚してきたのです。
その結果、
「律法の行いによらず義とされる」という聖書の教えを、
「律法を行わなくても義とされる」という偽の教えにすり替えてしまいました。
これはとんでもない曲解です。
この曲解により、多くのクリスチャンが滅んでしまうと聖書は教えます。
本当の福音
イエス・キリストは、私たちの罪の病を癒やすために来てくださいました。
このことを信じ、医者の忠告どおりに歩むこと、それが信仰です。
今、心を柔らかにして、聖書の本当の教えを受け入れましょう。
このとおり、キリストにある者は、罪(すなわち律法違反)を犯さないのです。
律法を守れているかどうかの話ではないことに注意してください。
律法に同意し、心から守りたいと思う者に変えられているかどうかの話です。
そのような人を、聖書は義人と呼びます。
一方、現代の教会は、「私たちは罪人のままだ」と教えます。
そのような不信仰な態度では、私たちの罪は癒やされません。
今、聖書の教えを回復し、正しい信仰に立ち返る必要があります。
もう罪を犯してはいけない
もう罪(すなわち律法違反)を犯してはいけない。これは基本中の基本です。
悔い改めるなら、私たちの罪は赦されます。これによって、私たちは永遠の命を生きることができます。
しかし悔い改めないなら、滅びるのみであることを覚えてください。
思い出してください。律法は、神と隣人への愛に要約されるものです。
これを無視する人に、神への愛はないのです。
私たちは悔い改めて、初めの愛を行わねばなりません。
これは私たちへの警告です。
主が私たちを愛してくださるからこそ、警告してくださるのです。
おわりに
罪とは何か、おわかりいただけたでしょうか。
それは神の律法である十戒に違反することです。
私たちクリスチャンは、安息日を無視することによって、長年、罪(すなわち律法違反)を犯し続けてきました。
それによって十戒を無視するようになり、やがて罪の癒やしも信じなくなってしまいました。
これを悔い改めて、聖書に立ち返りましょう。
安息日を回復することについては、大きな葛藤があることを、私は知っています。
なぜなら、私自身、日曜礼拝を捨て、安息日に立ち返ることをしてきたからです。
次のことを、私は隠しません。
安息日の回復に努めるなら、あなたは教会から白い目で見られ、誤解され、罵られるでしょう。異端、毒麦、偽教師と呼ばれることになるでしょう。人々の無関心によって、教会から抹殺されることでしょう。
それでも、主がともにいてくださいます。それで足りない人がいるでしょうか。
私たちが頼るべきは、主、お一人です。
今こそ、聖書に立ち返って、主の胸元へ飛び込むときです。
聖書に立ち返りましょう。そうして、一人でも多くの兄弟を助けましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)
こちらの記事も参考にどうぞ。