神学に潜む「獣の刻印」
はじめに
私たちにとって聖書を学ぶことは非常に大切なことです。
けれど、多くのクリスチャンが学んでいるのは「聖書」ではなく「神学」です。
今日、このことについて、真剣に考えてみましょう。
本当の教師
私たちの教師はキリストのみだと聖書は教えます。
教師の賜物を持つ人は、じつにこのことを教えてあげなければいけません。
自分を師と呼ばせず、「キリストから直接学んでください」と教える人こそ、本物の教師なのです。
それなのになぜ、キリストから直接学ぶ人は、講壇に立てないのでしょうか。
一体なぜ、神学校を出た牧師だけが、講壇に立っているのでしょうか。
神学校を出た牧師たち
神学校を出なければ、正式な牧師として認められない時代です。
けれど、神学校を出ることは、ある意味、パリサイ派やサドカイ派に入団することに似ています。
なぜなら、その人たちは習ってきた神学をそのまま教えるようになるからです。
これについて、主はどのように言っていたでしょうか。
無意味な礼拝だと言っています。
自分たちの言い伝えを守るために、神の戒めを捨てたと言っています。
実際、多くの牧師が、自分たちの言い伝えを守るために、神の戒めを捨てています。
すなわち、「日曜礼拝」という言い伝えを守るために、神の戒めである「安息日」を捨てているのです。
このことから、どうか目を背けないでください。
へりくだった心で、一度、真剣に考えてみてください。
神の戒めを捨ててしまった私たち
「安息日が日曜に変わった」とか、「復活の日を祝え」という記述は、聖書のどこにもありません。
皆、人から伝え聞いた教えを、そのまま行っているのです。
かつての私もそうでした。
一方、聖書は次のように教えています。
これについて、牧師たちがどう教えているのかを調べてみました。
ある牧師は「ここでの安息日とは、霊的成長に伴う喜びのことだ」と教え、ある牧師は「自分で自分を救うことから休むことだ」と教え、ある牧師は「わかりません」と答えていました。
彼らはなぜ、「十戒の安息日がまだ残されている」と素直に教えることができないのでしょうか。
誰もがわかっているはずです。その理由は、教会がずっと安息日を無視してきたからです。そのことを、今さら間違いだと認めることができないからです。
そうやって、自分たちの神学を優先し、頑に真理を拒んでいるのです。
このような姿を、どこかで見たことはないでしょうか。
そうです、イエスを殺したパリサイ派やサドカイ派の姿が、これとまったく同じなのです。
商売ができない
神学校を出ないでは、教会で教えることができない時代です。
そればかりか、「神学校を出ていない者の発言を信じるな」そう言って、伝道の邪魔をするクリスチャンさえいるのです。
このことは、獣の刻印を受けないでは、商売ができないことに似ています。
商売とは何でしょう。
商売とは、キリストが王位を受けて帰って来るまでのあいだ、私たちに任された働きのことではないでしょうか。
この商売が今、神学を受け入れないでは、できないようにされているのではないでしょうか。
獣の刻印
獣の刻印が何であるかは、聖書に明記されていません。
しかし、わかることもあります。
私たちの手と額には、獣の刻印ではなく、十戒が置かれているべきなのです。
事実、獣の刻印を受けないためには、十戒を守って忍耐するようにと聖書は教えます。
あなたは、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ち続けているでしょうか。
もう一度尋ねます。
あなたは神の戒めを守っているでしょうか。この主の言葉を、神の言葉として受け取っているでしょうか。
聖所に立てられた契約の板
十戒こそが、契約の箱に入れられ、聖なる場所に立てられた、唯一の戒めです。ほかにはありません。
もちろん、これは天の聖所にも立てられています。
そればかりか、神の宮とされたクリスチャンの中にも立てられているのです。
それなのに、この聖なる場所に立てられた契約を、あろうことか、ローマカトリックは書き換えてしまったのです。
それは昔から預言されていたことでした。
こうして、聖なる場所から十戒は取り除かれ、今や安息日を除く偽の十戒が立っているのです。
これこそが、「獣の刻印」また「荒らす憎むべきもの」だとは考えられないでしょうか。
山へ逃げなさい
山へ逃げるとは何でしょう。
山へ逃げるとは、ここに書かれた人の特徴を備えて、神のもとへ行くことです。
もう、眠っている場合ではありません。山へ逃げるときは来ているのです。聖なる場所に立てられた十戒は打ち捨てられて、荒廃をもたらす偽の教えが立てられているからです。
間もなく主が来られます。
そのとき、「神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒」だけが主のもとへ行くのです。
一方、頑に神の戒めを拒んだ人々は、次の言葉を聞くことになるでしょう。
このことを、あなたは信じているでしょうか。
どうか、もう頑にならずに、信じて命を得る者となってください。
おわりに
神学に潜む危険をおわかりいただけたでしょうか。
神学に従うか、聖書に従うかで、私たちの行き先は大きく変わるのです。
あなたがこのブログを読んだことは、単なる偶然ではありません。
主があなたの心の扉を必死にたたいておられるのです。
間違いを認めて方向を変えることを、聖書は「悔い改め」と呼びます。
この悔い改めの機会を、どうかふいにしないでください。
決して、パリサイ人の失敗を繰り返してはいけません。
今、心を入れ替えて、よちよちクリスチャンからやり直してみませんか?
聞いてきた教えをすべて手放して、聖書のみに歩んでみませんか?
このブログを信じる必要はありません。
人の教えをすべて捨て去って、聖書のみを信じましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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