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大患難とは何か
はじめに
聖書には次のような言葉があります。
マタイの福音書
24:21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
かつてなく今後もないような大きな患難とありますから、人類史上最大の患難が起こるというのです。
この大患難について、多くの人が誤解していることがあります。
それは、大患難が、神の怒りや、神の裁きだと思っていることです。
このことについて、聖書は何と教えているか、ご一緒に確認してみましょう。
出来事の順番
大患難、再臨、そして様々な災害は、どのような順番で起こるのでしょうか。
マタイの福音書
24:29 しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
24:31 また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
イエス様の説明によると、大患難ののちに、太陽や月が暗くなり、選民が集められるとあります。
聖書を素直に読むなら、私たちが集められるのは大患難ののちであって、恐ろしい出来事が起こるのも大患難ののちなのです。
これは、「世の終わりまで麦と毒麦を分けてはいけない」というイエス様の教えと一致します。
マタイの福音書
13:30 収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。
患難、収穫、御怒り
大患難ののちに、収穫があり、それから御怒りが臨む。
これは聖書の一貫した教えです。
ヨハネの黙示録
14:15 すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。
14:16 雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた。
14:17 また、もうひとりの御使が、天の聖所から出てきたが、彼もまた鋭いかまを持っていた。
14:18 さらに、もうひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が、祭壇から出てきて、鋭いかまを持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭いかまを地に入れて、地のぶどうのふさを刈り集めなさい。ぶどうの実がすでに熟しているから」。
14:19 そこで、御使はそのかまを地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。
患難と、御怒り。
これらはまったく別の性質を持っています。
まずは、この二つを混同しないように注意してください。
患難とは
患難とは、私たちクリスチャンに与えられるものです。
使徒の働き
14:22 ──わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難(スリプシス)を経なければならない──
ここで「苦難(スリプシス)」とある言葉は、「患難」と同じ言葉です。
つまり、私たちは多くの患難を経なければ、神の国に入れないと教えているのです。
患難とは、私たちの忍耐を育てるためのものであり、神の国に入らせるのに必要な賜物なのです。
ローマ人への手紙
5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
このプレゼントを、決して神の御怒りと混同しないでください。
御怒りとは
患難と御怒りは違います。
主は、「やがて来る御怒り」から、私たちを救い出そうとしておられます。
テサロニケ人への手紙 第一
1:10 ──この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。
思い出してください。
聖書によれば、大患難ののちに私たちは収穫され、残された人々に御怒りが臨むのです。すなわち「七つの鉢」で表現される災害です。
これは私たちの忍耐を生み出すためのものではなく、神の裁きそのものです。
それは滅びの日、旧約聖書で何度も語られた、主の日が来るのです。
平和だ、安全だ
御怒りは突然やって来る、聖書は何度もそう警告しています。
テサロニケ人への手紙 第一
5:3 人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
不思議に思いませんか?
大患難の最中に、なぜ人々は「平和だ、安全だ」と言っているのでしょうか。
それは、この大患難に、彼らは気がついていないからです。
これこそが、大患難の正体です。
患難は、聖徒のためのものであって、ほかの人々にとっては、平和で安全に見える状況なのです。
世に立ち向かわないなら、患難は見えてきません。
破滅の日が来るまで、「平和だ、安全だ」と言い続けることになるのです。
ノアの時代
大患難と、そののちに来る御怒りについて、主は次のように言われました。
マタイの福音書
24:37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
24:38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
24:39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
悪の満ちたその時代は、ノアにとっては大きな患難であっても、人々にとっては「平和だ、安全だ」という状況だったのです。
そうして人々が気づかないあいだに、患難のときは過ぎ去り、突如として御怒りが彼らに臨んだのです。
ロトの時代
ロトの時代にも同じようなことがありました。
ルカの福音書
17:28 ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、
17:29 ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
17:30 人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。
ソドムの人々がひどい罪に陥っている状況は、義人ロトにとっては大きな患難のときでしたが、その他の人々にとっては、「平和だ、安全だ」とお祭り騒ぎのような状況だったのです。
そうして気づかないあいだに、患難のときは過ぎ去り、突如として御怒りが彼らに臨んだのです。
もう大患難は来ている?
可能性として、考えてみてください。
あなたが「平和だ、安全だ」と思っているだけで、もう大患難は来ているのかもしれません。
実際、ソドムの時代よりも、世の中は遥かに不法に満ちています。
クリスチャンでさえも、十戒を守る人はほとんどいません。
ローマカトリックに由来する日曜礼拝のせいで、安息日は汚されています。
マタイの福音書
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法(アノミア)を働く者どもよ、行ってしまえ』。
「不法(アノミア)」とは、「法に背く」という言葉であり、神の律法に違反することを指しています。
マタイの福音書
13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。
13:41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法(アノミア)を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
13:42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
十戒を守らない人々が御国から追い出されてしまうことは明白です。
それなのに、教会はこれらの警告をしないばかりか、自分たちまで不法の者となっている始末です。
この大変な事態に、あなたは気づいているでしょうか。
気づいた人々は、異端視され、軽蔑され、罵られ、無関心という名の暴力によって、教会から殺されています。
真の信仰者は、もう、この大きな患難を経験しているのです。
目を覚ましてください。
これが最後の警告になるかもしれません。
おわりに
黙示録には、ラッパが吹き鳴らされて火が降ったり、星が落ちたり、イナゴが飛び回ったりする表現がありますが、それは黙示として書かれたことです。
大患難は、もしかしたら目に見える災害ではなく、気づかないうちにすでに起こっているかもしれないと考えてみてください。
いずれにせよ、人々が「平和だ、安全だ」と言っているときに、突如として主の日が臨むことは確かなのです。
それはノアやロトのときのようだと書いてあるからです。
もう大患難が来ているとしたら、次に来るのは主の日です。
主を迎える準備はできていますか?
聖書を正しく読み、最後の備えをしましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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