大患難とは何か
はじめに
聖書には次のような言葉があります。
かつてなく今後もないような大きな患難とありますから、人類史上最大の患難が起こるというのです。
この大患難について、多くの人が誤解していることがあります。
それは、大患難が、神の怒りや、神の裁きだと思っていることです。
このことについて、聖書は何と教えているか、ご一緒に確認してみましょう。
出来事の順番
大患難、再臨、そして様々な災害は、どのような順番で起こるのでしょうか。
イエス様の説明によると、大患難ののちに、太陽や月が暗くなり、選民が集められるとあります。
聖書を素直に読むなら、私たちが集められるのは大患難ののちであって、恐ろしい出来事が起こるのも大患難ののちなのです。
これは、「世の終わりまで麦と毒麦を分けてはいけない」というイエス様の教えと一致します。
患難、収穫、御怒り
大患難ののちに、収穫があり、それから御怒りが臨む。
これは聖書の一貫した教えです。
患難と、御怒り。
これらはまったく別の性質を持っています。
まずは、この二つを混同しないように注意してください。
患難とは
患難とは、私たちクリスチャンに与えられるものです。
ここで「苦難(スリプシス)」とある言葉は、「患難」と同じ言葉です。
つまり、私たちは多くの患難を経なければ、神の国に入れないと教えているのです。
患難とは、私たちの忍耐を育てるためのものであり、神の国に入らせるのに必要な賜物なのです。
このプレゼントを、決して神の御怒りと混同しないでください。
御怒りとは
患難と御怒りは違います。
主は、「やがて来る御怒り」から、私たちを救い出そうとしておられます。
思い出してください。
聖書によれば、大患難ののちに私たちは収穫され、残された人々に御怒りが臨むのです。すなわち「七つの鉢」で表現される災害です。
これは私たちの忍耐を生み出すためのものではなく、神の裁きそのものです。
それは滅びの日、旧約聖書で何度も語られた、主の日が来るのです。
平和だ、安全だ
御怒りは突然やって来る、聖書は何度もそう警告しています。
不思議に思いませんか?
大患難の最中に、なぜ人々は「平和だ、安全だ」と言っているのでしょうか。
それは、この大患難に、彼らは気がついていないからです。
これこそが、大患難の正体です。
患難は、聖徒のためのものであって、ほかの人々にとっては、平和で安全に見える状況なのです。
世に立ち向かわないなら、患難は見えてきません。
破滅の日が来るまで、「平和だ、安全だ」と言い続けることになるのです。
ノアの時代
大患難と、そののちに来る御怒りについて、主は次のように言われました。
悪の満ちたその時代は、ノアにとっては大きな患難であっても、人々にとっては「平和だ、安全だ」という状況だったのです。
そうして人々が気づかないあいだに、患難のときは過ぎ去り、突如として御怒りが彼らに臨んだのです。
ロトの時代
ロトの時代にも同じようなことがありました。
ソドムの人々がひどい罪に陥っている状況は、義人ロトにとっては大きな患難のときでしたが、その他の人々にとっては、「平和だ、安全だ」とお祭り騒ぎのような状況だったのです。
そうして気づかないあいだに、患難のときは過ぎ去り、突如として御怒りが彼らに臨んだのです。
もう大患難は来ている?
可能性として、考えてみてください。
あなたが「平和だ、安全だ」と思っているだけで、もう大患難は来ているのかもしれません。
実際、ソドムの時代よりも、世の中は遥かに不法に満ちています。
クリスチャンでさえも、十戒を守る人はほとんどいません。
ローマカトリックに由来する日曜礼拝のせいで、安息日は汚されています。
「不法(アノミア)」とは、「法に背く」という言葉であり、神の律法に違反することを指しています。
十戒を守らない人々が御国から追い出されてしまうことは明白です。
それなのに、教会はこれらの警告をしないばかりか、自分たちまで不法の者となっている始末です。
この大変な事態に、あなたは気づいているでしょうか。
気づいた人々は、異端視され、軽蔑され、罵られ、無関心という名の暴力によって、教会から殺されています。
真の信仰者は、もう、この大きな患難を経験しているのです。
目を覚ましてください。
これが最後の警告になるかもしれません。
おわりに
黙示録には、ラッパが吹き鳴らされて火が降ったり、星が落ちたり、イナゴが飛び回ったりする表現がありますが、それは黙示として書かれたことです。
大患難は、もしかしたら目に見える災害ではなく、気づかないうちにすでに起こっているかもしれないと考えてみてください。
いずれにせよ、人々が「平和だ、安全だ」と言っているときに、突如として主の日が臨むことは確かなのです。
それはノアやロトのときのようだと書いてあるからです。
もう大患難が来ているとしたら、次に来るのは主の日です。
主を迎える準備はできていますか?
聖書を正しく読み、最後の備えをしましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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