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さりげなく、何者かになる

(さりげなく、何者かになる 1 を更新しました 3-11-2018)



わたしには、夢がなくて
ずっと、自分が何をすればいいのかがわからなくて

その、「使命」のようなものが、必ずどこかにあるはずなのに

それが見つけられない日々を、生まれてから30年以上送ってきました。

今のわたしは、多分ほかの人から見ると

人々から必要とされて
だれかの役に立ち、やりがいのある仕事として多くのひとを救い

そして、

なんてそれは、「使命」感に溢れたものなんだろうと
いつかのわたしのように感じている人から見ると、そう見えると思うんです。

でも、以前にも書きましたが、
わたしが「セラピスト」として生きることを決めた瞬間というのは、

なんともあっけないものというか、

なんともさほど、重要な意味もない、節目らしい節目のような感じもなく

とてもさらりと、

さ、今日からなんとなく、決まったガソリンスタンドで
ガソリン入れよう。よろしく。

みたいな感じだったわけです。

正確に言うと、全然違う(いやそうだろう)んですが、
そのくらい、

昨日までは何者でもなかった私が、
「今日からセラピスト」をただ、名乗った。

まさに、そういう感じです。

(昔わすれたけど「今日から俺は」っていう漫画かなんかのタイトルが(読んだことないけど)高校生のときに結構インパクトがあって、すごい気に入ってた)

世界中を旅し、延々探し回り、ついに巡り合ったわたしのやるべき使命...
みたいに、感動的で「遂に、遂に!」な涙満載の結末だったら
それはそれでドラマがあって語り甲斐もあるというものですが、何か欲しかったものがふと、落ちてくるときというのは
実にさりげない場合が多い。

それは、何か強い執着の元でほしいものを追いかけている時の、
とても苦しくてぎゅっと握りしめたり、必死で追いかけている感じとは対照的です。

それが、わたしが「セラピスト」として生きることを決めた日
にも同じことが起こったわけです。

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