見出し画像

鉄塔のある風景

 私のかつて住んでいた家のちかくには鉄塔があった。そのそばに二軒続きの長屋があって、しんせつな一人暮らしのおばあさんが住んでいた。お菓子をくれたり、いろいろと話しかけてくれた。そして、送電塔の下の空き地で、お花を育てていた。いつかしら、いなくなっていたけど、花園は残った。育った町では、個人のだれのものでもない空き地になにかしら、誰かが草木を植えてしまうのだ。他のちかくの鉄塔には、いちじくやら、びわさえ、植えられていた。食べている人はみたことがなかったけど。そんなひっそりとしているのが大好きだった。

 海辺の母方の祖父母の家に行くことが多かったから、とれたてのトマトの美味しさも海の水に浸かる喜びも知っていたけれど、やはり、生まれ育った町が好きだった。母の親戚はすてきな団地やそのあとは綺麗な新興住宅にすんでいたので、親はうらやましがっていて、町をけなしていた。だけれど、ちいさな私にとって、それはかなしいことだ。今なら言える。夢や理想よりもちいさな体のそばにある日常が好きだったのだ。

 大人になって庵野秀行のアニメを見て感じたのは、人間の作った風景は美しいと思っていいのだと肯定されていると思えたことだ。工場群や送電線のあるごちゃごちゃした鉄のある風景。そして、それを支えている人々。人間の作った世界はいとしい。彼の新しい映画である「シン・ゴジラ」のなかでそういったものが踏みにじられ、そして、それをささえてきた人々によって、日本は救われる。私もあのとき、理想の場所ではない、あるがままのごどうしようもない日常をたいせつに守りたかったのだなあ。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?