【映画】林檎とポラロイド(APPLES)完全ネタバレ感想、解説③飛躍した妄想解説

本当に長くなってしまったので林檎とポラロイド、3つの記事に分けることにしました。
私自身は続けて一つの記事でダーッっと書き殴った後に「やっば、長すぎ」と思ってコピペで記事を分けたので、一応後から直したつもりですが、前回の記事の内容を先に書いたなどと表現しているかもしれません。

今回で最後、勝手な解釈を書いたので映画を観た人なら伝わるかも…観ていないとなんのこと?となるような話。

核心通り越して妄想に近くなっているくらいネタバレなので未視聴の方は注意でお願いします。


飛躍した読み解き、実はプログラムは成功してた?とかの話

前回書いたように、この映画は色んな解釈ができると思う。
だからこれが正解なんてことはないし、私の中でもあぁも見える、こうも見える、と解釈が複数存在する。そのあたりを書きたいと思う。


身元不明な記憶喪失者って実は…

この映画、いたるところに主人公と同じような課題をこなしている人がいる。
仮装パーティーのバットマンしかり、映画館で女性と出会い看板の写真を撮った後にも同様にポラロイドで写真を撮ろうとする別の女性の姿。
自転車と撮影しているプログラム中の人もいる。
映画冒頭、車をどかしてと言われている人もそうだ。

主人公と直接かかわる女性以外にもたくさんの身元不明な記憶喪失者がいるのだ。

さて、この身元不明でプログラムに参加したであろう人達。
本当に記憶ないのだろうか?

主人公と行動を共にした女性も、逆上がりできて元アスリートだったとか?と答える反面、陸上競技という言葉は知らない。
そしてあれだけ会話していたのに急に今数を数えている最中で、154秒だから4分達成だと極端に変なことを言う。
ダンスに行く時の彼女は遅れちゃうというのだから時間の概念は通常のままのはずなのに。

ドライブ中にする映画はタイタニックで間違いないだろう。
直後に主人公が歌詞を覚えているのと同様にこの女性もよく覚えていた物だ。

そもそもの話、この新しい自分プロジェクト。
変じゃないですか?

ある日突然記憶をなくして街で保護された人を一人暮らしさせている時点でまたいついなくなってもおかしくない。
身元不明者担当の女医?とその上司が主人公宅を訪ねた時に留守だと「逃げたかな?」という上司、そこはまた記憶をなくして失踪したかもってなりませんか?

テストもせず、皆当たり前のように自転車には乗れる前提、車を運転させれば人を巻き込まない、自身もケガをしない程度に事故らせることができる前提。そもそも無免許運転だし。


ここで前回書いたリンゴを食べる主人公以外がキーになる。
病院の庭でリンゴを向いている主人公。
そこにやってくる身元不明者の担当だという女医。
彼女の手には紙袋。そして会話しながら手に持っているのが齧りかけのリンゴ。見切れているけどリンゴで間違いないと思う。

つまり何が言いたいのかというと、この知恵の木の実を食べる女医は実は全て分かっており、身元不明な記憶喪失者=虚偽の記憶喪失者であり、女医もそのことを全て分かっているのではないかということ。

人生で何か辛いことがあってそれを忘れたいと思っている人がこの世界には沢山いる。
もういっそ、記憶喪失になって新しい自分になりたいと思っている人達が主人公と同様に記憶喪失の振りをしてくるので、この世界では突然記憶喪失になる奇病として流行ってしまった。

だからこそこの女医は、後半、主人公が撮ったポラロイドを見て思わず鼻で笑ってしまう。
女医からしたら記憶バッチリある男が記憶の無いふりをして子供用の自転車に乗ってみたりしているのだから。

街の至る所に身元不明で課題に取り組む人がこれだけいるということは、例えば主人公の男だったら元の自宅の光熱費の支払いは?などいろんな社会問題が起きる。
主人公もあえて車を事故らせていることから、そこまでが課題となっているのだろうが、街の至る所でこの課題をしていても許される理由は?

理由は1つで国立の精神科病院と政府とでこれを容認するように話が通っているからに他ならない。
だとすればこれが本当の記憶喪失者だったらそんなの危険すぎてハンドルを握らせて良いなんて許可が下りるはずもなく、この映画の本当の真相は、これは記憶喪失の振りをするくらい追い詰められた人へのリハビリの話ということ。

病院で隣になった男性は親族が見つけて退院していった。
彼はリンゴを主人公に上げたので食べていない。
リンゴが好きかどうかも忘れてしまったという。
この男性だけが本当の記憶喪失の状態。

リンゴを知恵の木の実とするなら、覚えておくことや知っていることが好きかどうかすらわからない、大事なのか要らないのかもわからないので気軽に主人公に上げてしまえる。
新しい自分プログラムだって新たに覚えるのだから記憶、リンゴは必要。
でも真の記憶喪失ではリンゴが必要かどうかの判断もできない。

そういう本当の記憶喪失の状態の人は親族が迎えに来たからこのプログラムは受けさせない。
あくまで身元不明者に限るのは、このプログラムの真の意図は「記憶喪失を装う人のリハビリ」という意味で、主人公は見事プログラムが役に立って自宅に戻ることができたのだと思う。

ただ、この説だとじゃあ他の身元不明者がリンゴを食べていないのは?となるのだけれど…。
リンゴを食べている人だけが記憶があるとすると、病院で出された食事でみんな自分の分はリンゴ食べてる?と言い張るか、やっぱり主人公と女医だけがちゃんと認識していて他の人は本当にこの世界の奇病にかかっていることになるが、このあたりが解釈色々できる部分だということでお茶を濁しておきたい(笑)

新しい自分プログラムの課題の話

パラシュートはまだ早い…ってことは飛ぶの!?って課題は一体何個あるんだ!?なこの新しい自分プログラム。

主人公が体験したものだけで8個、9個目の内容を聞いている途中でテープを止めて主人公は自宅へ向かう。
で、その内容がコレ
①自転車に乗れ
②仮装パーティーで友達を作れ
③バーで酒飲んでダンサーに踊って貰え
④ホラー映画を観ろ
⑤プールで飛び込め
⑥車を運転
⑦バーで酒飲んでワンナイトラブ
⑧死にそうな病人と過ごして葬儀に行け
⑨誰かに苦痛を与えている人を探して…(実行せず)

さて、この内容をどう解釈するか。
まず先に書いた通りこのプログラムが記憶喪失のためのものでなく、記憶喪失の振りをしている人のリハビリだと考えた場合、様々な事情を想定して多様な課題をさせることで、そのうちのどれかがヒットすると想定され作られている可能性がある。

例えば主人公なら妻の死というトラウマなので、誰かの死を見届ける(正確には死を見届けている残された人を客観的に見た)ことでプログラムを止め自宅に変えるきっかけになった。

お婆さんの葬儀なんて退屈だから付き合ってほしいと言ってきたあの女性はきっとここでは心境の変化はないのだろうけど、以後、他の課題で何かあるかもしれないし、対人関係で悩んでいた人は仮装パーティーやワンナイトラブで解決したかもしれない。

ただ、この解釈とは別でもう一つ考えられると思うのがこの課題は人生の縮図になっているのではないかということ。

まず幼少期として自分の力で自転車に乗るなどの達成をし、子供たちのハロウィン仮装のようにパーティに参加する。
次に中高生時代、ダンサーと接近する=性的な目覚めから映画館でのデート。
プールが分岐点で高所からの飛び降りる度胸試しは成人への登竜門。
大人の証、自動車運転からの失敗と異性交遊
そして年配者を看取る

ここまでが主人公が実際に行った行動。
次の課題だった誰かに苦痛を与えている人を探せ。そして…というのも、肝心な「そして…」以降が語られないので多様な見方ができるが、要するに社会的に誰かを攻撃している人を説得なり成敗なり、どうにかしようという社会人としてのモラル、社会正義みたいなことになるのではないだろうか?

先程も書いたように公道で事故らせてOKなくらい政府も認めているリハビリなので、この課題をこなすと社会的に都合のいい良識人を生み出すようになっている気がする。

なんとなく日光東照宮の人の一生を暗喩していると言われる三猿で有名なあの一連の彫刻、絵?を思い出した。


主人公はどうして自宅に帰ったのか

本当に長くなってしまったが、最後に主人公はラストどうして自宅に帰ったのかについて考えたいと思う。

ポイントは後半の死にゆく老人と一緒に過ごす場面。
老人の奥さんはまだ存命だがもう老人のことを覚えていない、家からも出ないから見舞いに来るのは娘だけだという話を聞いて、奥さんはこれ以上あなたを忘れることが無いから幸せかもしれないという。

つまり、主人公は忘れてしまいさえすれば楽になれる、色んな妻との思い出を忘れていく途中こそが辛いと言っているのであって、決して妻とのことを全てきれいさっぱり忘れたいと心から願っているわけではない。
おそらくできることなら幸せな思い出は覚えておきたいのだと思う。
何故なら、自宅には妻の服と靴を見えるところにかけたままにしてあったから。
忘れたいなら見えないよう片付けるだろうに、妻の小物から何までそのまんま。
それを見ながら喪失感だけに囚われていた。

そんなどっちつかずな状態は辛すぎるので新しい自分になりたいと思いプログラムを受けているし、忘れることができれば幸せかもしれないと感じてもいる。

このどっちもあるような複雑な感情の中で、この老人が翌日亡くなり、葬儀で泣いているのはしっかりと記憶をもって見舞いに来ていた娘。

それを客観的に見ることで、記憶があるから悲しむこともできるし、そうやって辛くとも覚えていることが本当に亡くなった人のことを思っていることだと感じた。
だからこの後、新しい自分プログラムを止め、辛いままの自分の延長として妻の墓へ行き、冒頭に備えた花(記憶喪失になるのでもう来ない別れの花)を新たに辛いけど記憶の中の妻と一緒に生きるための花へと交換し、自宅に戻って忘れないように見えるところに出したままだった妻の服と靴を仕舞う。

ここで、忘れない決心をしたのなら服は見えるところにあった方が良い筈だけど主人公はクローゼットに仕舞う。

つまり、主人公が最後にリンゴを食べるのは、記憶を留めるためではなく、全て受け入れて、今後記憶が薄くなっても、覚えていてつらいままがいつまで続くか分からなくても、自然に身をゆだねる。元来綺麗好きな主人公、いつまでも妻の服をかけっぱなしとか、歪なことをしない。
元から好きだった林檎を食べるのもごく自然な事で、忘れたいからオレンジにするとか、無理して食べまくって覚えておこうとかはしない。

ただ、リンゴが記憶に良い話は覚えているはずなので、ほんの少しの願掛けくらいはあったと思う。


終わってみれば記憶のために普段はやらないだろう色んな課題をこなし、辛い日常を歪に歪に変化させまくった結果、一つのきっかけでニュートラルな状態に戻ろうというまでのリハビリ。
何かに囚われてどっぷりドツボにハマっている時はこういう無理やり外部からの指示で引っ掻き回されるのもいいのかもしれない。


いやー長かった。
もし最後までこんな駄文を読んでくれた人がいたら本当に申し訳ない。
そしてありがとうございます。


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