クリストファー・ノーラン インソムニア 感想、考察
刑事事件と不眠症、そして白夜の田舎町。
クリストファー・ノーラン監督の2002年制作のこの映画インソムニア。
なんだかんだでノーラン監督作品はほとんど見ており、どうせなら全部見るかと思い立ち、この映画を見ることにした。
以後、ネタバレ注意
あらすじ
白夜によって夜中でもまるで昼間のようなアラスカの田舎町で起きた殺人事件。
その解決にロス市警からやってきた敏腕刑事の主人公ドーマーと相棒のエッッカート。
調査の合間、エッカートから実は内部調査の手が伸びていること、そして調査官との取り引きに相棒エッカートが応じるつもりだということを知らせれ、そうなれば自分の過去の捜査の信頼性が揺らぎ再捜査、せっかく刑務所に入れた凶悪犯を野放しにしかねないと不安になるドーマー。
そんな中、捜査は進み霧深い山の中でドーマーは誤って相棒を撃ってしまう。
咄嗟に、犯人に撃たれたことにしてしまうドーマーと実はそれを見ていた犯人。隠蔽と事件の迷宮化という犯人との共犯関係の中で揺れるドーマー。
映画のタイトル、インソムニア(不眠症)のとおり、ずっと眠れずに精神的にも辛くなっていく。
そしてラスト、晴れ渡る空の下で眠りにつくドーマー。
と、一応見た人前提であらすじを書いた。
以後、完全にネタバレの上でこの映画の細かいポイントについて語りたいと思う。
不眠症の答えはオープニング
この映画の一つのポイントとして不眠症と白夜がある。
出張でやってきたアラスカの田舎町で白夜によって夜でも明るくて眠れない。
そして段々と精神的に辛くなっていく。
ように見えるが実は違う。
映画のタイトル、インソムニア。
インソムニアとは不眠症のこと。
では、主人公ドーマーはこのアラスカの白夜によって不眠症になったのか?
その答えは映画の一番最初、インソムニアのタイトルが表示されるところからすでに出ている。
映画の初めINSOMNIAの文字が浮かび上がるその後ろ。
極度にクローズアップされた何か繊維のような真っ白な網目が真っ赤に染まっていく。
これがINSOMNIA、不眠症の原因だという宣言。
ここからオープニングは氷河の白→赤く染まっていく繊維→氷河の白→赤く染まる繊維と繰り返されながら進んで行き、最後、白いシャツの袖に付いた赤い液体を擦っているところで主人公ドーマーが目覚めると、外はまた白い氷河。
これは映画の後半、実は以前証拠を捏造したことがあるという告白によって、このオープニングのシーンがその時の記憶だと分かるのだが、このオープニングをよく注意して見ると、繰り返される氷河の映像はピンボケしたりピントが合ってはまたボケたりしてまるでウトウトと起きてはまた眠りに入るような描写になっていることが分かる。
また、赤く染まる繊維の描写も、同じ映像の繰り返しではなく、極度のアップだったり、横にスライドしたりと、その都度違ったイメージになっている。
つまりこれは、飛行機に揺られながらドーマーが起きたり眠って夢を見たりを繰り返しており、ゆっくり深く眠れていないということ。
ドーマーはアラスカに来る前から、この証拠捏造のことで悩んでいた。
この時点ですでに浅い眠りを繰り返していた。
そしてアラスカで相棒を誤って撃ってしまったことを隠したことで更に罪の意識に苛まれることになり、不眠症が深刻化していく。
というように、不眠症はドーマーの罪悪感の表れであり、単純な白夜で明るいからと言うことではない。
そもそもの話、誰でも昼寝や授業中の居眠りはしたことがあると思うが、単純に眠たければ人間は明るくても眠ること自体は全然できる。
それが何日も眠っていないほど眠たいのなら尚更だし、本当に明るくて眠れないのならアイマスクや窓のない部屋など、暗くする手段はいくらでもあるはず。
外の明るさ自体は不眠症の直接の原因にはならない。
白夜の意味
では、なぜこの映画の舞台がアラスカの田舎町で白夜なのか。
もちろん、慣れない白夜によって不眠症が酷くなるということもありえる。
しかし、映画の中の意味としてはそれだけではないと思う。
映画の後半、宿屋の女店主のセリフが
「アラスカには二種類の人間がいる、ここで生まれた人かでなきゃ何かから逃げてここにたどり着いた人」
女店主は後者なのでドーマーの罪の告白について自分には何も言えないという。
ドーマーも相棒のエッカートも内務調査から逃げてアラスカへやって来た。
エッカートは既に内務調査官に協力する(白状する)と決め逃げることを止めているのでそう悩まなくても良かった。
小説家のフィンチも、アラスカにやってきて五日眠れなかったという。
彼も今回の少女殺人事件とは別にアラスカに逃げてきた理由があったのだろう。
要するに、アラスカに外からやって来る人は何処かに後ろめたい何かから逃げ来た過去を持つ。
そんな人達にとって、白夜でずっと昼間、夜が来て一日が終わらないということは、ずっと逃げ切れない、今日が延々と続くということかもしれない。
不眠症が深刻化したドーマーは普通の光もまぶしく感じるようになってしまう。
不眠症が罪悪感の表れだと考えると、光を嫌うとは後ろめたいことが白日の下にさらされることを恐れているということだと思う。
”白日の下にさらされる”
英語訳だとbe brought to lightとなるらしい。
映画の途中、川を流れる木材の下に入ってしまうシーンがあるが、木材の合間合間から漏れる光、その下の薄闇の水中でもがき苦しむドーマーというのが、まさに不眠症で隙間から漏れる光を気にする部分と重なる。
光の下へ出てしまった方が楽になれる。
それまでは苦しみ続ける。
宿屋の女店主の答えも、「自分で正しいと思ってやったことでしょ?一生背負っていく覚悟で」というものだった。
どう言う形であれ、自分で受け入れる、覚悟を決めることが必要。
映画のラスト、ドーマーは眠りたいと言って目を閉じる。
死んでしまったのか、本当に眠っているだけかは分からないが、このシーンだけ青空が少し見える。
全て話すことを決め、エリーに道を見失うなと言えた事でやっと解放されたのだと思う。
ドーマーは相棒を撃ったのは故意か?
この映画の感想を見るとよく話題に上がっているのは、霧の中、ドーマーが相棒のエッカートを撃ってしまったのは本当に間違いだったのか、それとも後にドーマー本人すら良く分からなくなっているように、実はエッカートだと分かった上で撃ったのか。
自分の解釈では、あれは本当にただ間違えて撃ったのだと考えている。
霧の中でドーマーは持っていた銃の弾切れ?目詰まり?から予備の9mm拳銃を手に取って撃つ
撃った後近づいたところで犯人の38mm口径拳銃を拾うが、もしこれがドーマーの不眠症でおかしくなった後の妄想でないのなら、この拳銃を拾った時点で不信感、警戒心を持たないとおかしいがそれが見られない。
ドーマーが霧の中の相手を犯人ではなくエリックだと分かった上で撃ったのであれば、その手前に誰のものか分からない見たことない銃があれば第三者がいると警戒するはず。
エリックの銃なら相棒であるドーマーはよく知っているはずで、そんなエリックの銃以外の見知らぬ銃が落ちているということは、自分とエリック以外の誰かが置いたことになるので目撃されている可能性があり、警戒するのが普通。
しかし、そんな警戒しているような素振りはなく、ドーマーは38口径の銃を拾う。
つまり、ドーマーは犯人を撃ったら犯人が武器を落としたと考えたからこそ銃を拾い、相手が銃を持っていないと思えたからそのまま撃った相手に近づいて行けたのだと思う。
もし、見知らぬ銃を拾った上で撃った相手はエリックだと分かっているのであれば、エリックはまだ自分の銃を持っていると予想できるわけで、反撃される恐れもある。
それに、不眠症が酷くなりどんどん混乱していくのはこの出来事の後のこと。
この時点でエリックだと分かった上で殺したのであれば、やはり誰のものか分からない38口径銃に対して警戒するはず。
したがって、後でドーマーが良く分からなくなり、エリックだと分かって撃ったのかもしれないと言うが、実際はそんなことはなく、本当にただ間違えただけだったのだと思える。
まとめ
ノーラン映画はメメント、インセプションやテネット、インターステラ―など、物語の構造が複雑で何度も見ないと全体像がつかめないことが多い。
自分自身はそれがまた面白いのでノーラン映画が好きな大きなポイントであるけれど、今回のインソムニアはノーラン映画にしては話の流れが分かりやすく、どちらかと言うと俳優陣の演技で見せていくタイプだと感じた。
だからつまらなかったということも決してなく、精神不安や夢などによって現実の自分が良く分からなくなるのはやはりノーラン映画の一つの特徴で、その部分はインソムニアにもしっかりあったと思う。