【映画】林檎とポラロイド (APPLES) 完全ネタバレ感想、解説 ②

前回に引き続き、映画「林檎とポラロイド」の感想です。
今回は完全にネタバレ。

この映画のネタバレは推理小説のように犯人が分かってしまうと面白さ半減というほどではないとは思いますが、実は初見でもちゃんとよく見ていれば分かる内容かもしれないので、やっぱり最初は何も見ないで映画を視聴した方が良いと思います。

それと、この記事の内容はあくまで私の個人的解釈であることと、正解が語られていない見た人の解釈次第な部分も多分に含まれる映画であることを予め言っておきます。

ネタバレ記事は見出しの目次付けるとそれすらネタバレの危険があるので、今回、見出しの目次はつけません。
主にどういう話をするかというと
・物語に隠された真実
・なぜ騙されるのかの話
・タイトルの林檎の話
・寓話的、飛躍した解釈

長くなります(笑)

それでは、以後、ネタバレなので注意です。



あなたは気付きましたか?記憶喪失の真相

さて、まずこの物語の一番のポイントである主人公の記憶喪失から話そうと思う。
映画のオープニングで柱に頭をドンドンと自らぶつけている主人公。
呆然とソファーに座っていたところにラジオから今世間で流行している記憶喪失の奇病に対する新たな治療法の話題が流れてくる。

そして急に自宅を出る主人公。

普通に物語を追っていくとこの後すぐバスの中で記憶喪失状態になって病院へ行くのだが、ここまでの流れを映画のラストまでちゃんと覚えていると判明する事実が沢山ある。

実はこの映画最大の特徴は、それをラストまでしっかり覚えておける人がどれだけいたかな?というくらい映画全体から漂う眠気。
映画の内容でない、現実の私たち視聴者の意識を惑わせる部分でこの映画のミスリードは完成されていると思う。

ラスト、眠気に誘われてボヤっとしていると忘れてしまっていたくらい唐突に登場するアパートのドアは映画冒頭で主人公が出て行った自宅だ。
自宅には女性物の小物や財布、冒頭アップで映し出されたレースは亡くなった妻の服だった。

自宅へ向かう途中立ち寄った墓はその直前に葬儀があったお爺さんの物ではなく、主人公の妻の物。その証拠に墓石にはANNA(アンナ)とどう見ても女性名。
映画冒頭でバスに乗る前に買った花(菊)が供えられており、それが既に萎れている。それを新しい物へと交換した。

つまり、映画の冒頭で主人公は最愛の妻を亡くし、それを忘れたくて頭を柱にぶつけていた。
そこに、ラジオから記憶喪失の奇病の話題「新しい自分プログラム」というワードが流れて来たので、主人公は記憶喪失になったふりをして、新しい自分プロジェクトを受けることで妻を亡くした辛さから逃げたかった。

そうすると、話は全て一変する。
ネットで他の方の感想を読むと、「主人公はラスト記憶が戻った、いつから記憶が戻ったのか」といった話を見かけるけれど、実はそうではなく、主人公は最初から一度たりとも記憶喪失にはなっていない。

その証拠が沢山ちりばめられており、例えば冒頭、自宅を出てすぐ玄関でマル―という犬とその飼い主に合っているが、実はその後ろ、建物の壁に135の札がある。

これは記憶喪失となって新しい自分プロジェクトに参加した後、8番地のアパートに住んで近所の八百屋で間違えた住所135番地の真相。
新しい自分プロジェクトで課題をこなしていく前から、ついうっかり自宅の135番地を答えてしまうほどに彼の記憶はしっかりとしている。

そもそも、バスで記憶を失う前、花屋で花を買い、バスに乗るだけのお金の入った財布は持っているのに免許証やその他諸々の身元に繋がりそうなものは一切入っていない。
車の運転は課題で難なくこなせるのに日常的に免許証一枚持ち歩かないのだろうか?
病院に行ってすぐ、隣の記憶喪失の男性に痛みはあるのかなど質問をするが、これも本物の記憶喪失を真似するための情報収集。
翌朝、具合を聞かれて隣の男性の言っていた通りの返答をする。

新しい自分プロジェクトの説明をするから部屋に来るように言われ、思わず「何時に?」と普通の待ち合わせをしようとしてしまったりもすれば、その後連れて行かれた新居では引き出しを開けて見たり照明をしきりに触ってみたりしているが、あれは盗聴器などないか探っているのだろう。

その後、公園で冒頭に合った犬にあった時にちゃんと覚えていることや、そこで飼い主には見られないように慌てて逃げること、妻の墓や自宅に戻れることを考えても、実は主人公は記憶喪失ではないというのは間違いない様に思う。

この他にも、セリフでの説明の少ないこの映画でよ~く見ると目線や仕草で主人公が至極まともであることが伝わる。例えば女性が154秒は4分だと言うとつい戸惑ってしまうなど、主人公の記憶がまともだと思いながら見ていると気付く点は多い。

ポールダンサーに目の前で踊られても顔を背けたり、同じプログラムを受けている女性にトイレで…な翌朝呆然としているのもそれでも忘れられない妻への罪悪感。
帰り道のアーケードでのモノクロテレビ、そこに映る男女のカップルはモノクロ=過去の象徴、男女は男性とその妻という重ね合わせ。
それがもう触れられないものとしてフェンスの向こう側で延々と流れているのは消したくても消せない主人公の記憶そのもの。

まとめると
・主人公は妻を亡くしその辛い記憶から逃げたかった
・記憶喪失の振りをして新しい自分プロジェクトを受けていた
・ラスト、自宅に戻ったのは記憶が戻ったからではなく心が変わったから


なんで視聴者は騙されるのか

この映画、実はそんなに捻った作りのミスリードは無いと思う。
例えば時系列を入れ替えたり、主人公の行動だと思っていた物が実は…なんて展開は無い。
では、何故この映画は初見で騙される、感想を見ると誤解している人が結構多いのだろうか。

それは大きく分けて3つ。
・セリフ以外で語られることに慣れていない
・街並みなどあえて誤解が起きやすいように特徴が無い
・淡々と進み眠気を誘う

まず、大きな部分としてこの映画全体の進行が起伏に乏しくとにかく眠気を誘う。
課題をクリアし写真を撮って、部屋に戻る
アクション映画ならこの課題ごとにハプニングやド派手なシーンを入れ視聴者の目を覚ますと思うけれど、そういうことが一切ない。
なので視聴者はいつのまにかボーっとしてきて、しかもこの手の内面的な映画に謎が隠されていると思ってすらいないので完全に油断している。

そこに、昨今映画は最初から1.5倍速で見るなんて人もいるくらいな状況なので、セリフ以外の部分、目線や言い淀みなどを多用しているこの映画から察することが苦手な人が多い。
また舞台となる街並みも変わり映えが無いのでボーっとしているとあり得ないような誤解をする。
事実私も、最初はラストに帰った自宅は誰の部屋だったかよく分からなくなって半分寝落ち状態でした。

おそらく監督はコレ意図的なんじゃ無いかなぁ。
例えば主人公の自宅だけ郊外の一軒家とかにすれば誤解は起きないし、登場する車も色を変えれば女性が運転してきた時と主人公の課題の時で絵的に変化もさせられる。
でもあえて単調な雰囲気の中で視聴者の記憶もボヤっとさせたままにしているのではないかと感じた。
物語の語り口でのミスリードというよりも、映画全体から漂う雰囲気で誤解を誘発する作りのように思えた。


林檎の話

主人公が度々食べるリンゴの話。
自分もそう思ったし、ネットで感想を見ても書かれているけれど、リンゴ=知恵の木の実=記憶。
リンゴを食べることは知恵、記憶をつけることであって、だから八百屋でリンゴは記憶に良いと聞いた主人公は慌ててオレンジに変更した。
辛い記憶もリンゴを食べていたら忘れられないのではないかと。
そしてラスト、自宅に帰り再びリンゴを食べる主人公は、結局妻との記憶を忘れないという決心をした。

というのが王道の解釈だと思う。

ただ、実はこの部分は少し違った解釈というか、そもそも旧約聖書?において知恵の木の実と書かれているものはリンゴだという明確な表記は無いことと、それとこの映画ではもう一人リンゴを食べている人がいることを考えると、また少し違った読み方もできるのではないかと思う。

これから書く内容はより私の個人的解釈によるものなのでもはや妄想ともいえる話です。
そもそも色んな解釈ができる映画だと思うので、私の話も二転三転矛盾するかもしれません。

と、本当に長くなってしまったのでここで記事を二つに分けようと思います。

次回は本当に飛躍した話、私の個人的解釈によるこの映画の本当の真相について書こうと思います。


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