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その辺にあるもので

バイクに乗っていると、よく見かける生物がいる。
人間は勿論だが、スズメ、ツバメ、カラス、カモメといった鳥たちだ。
バイクに乗りながら彼らを観察していると、飛ぶ方向であったり、飛ぶ数であったり、きっと生物学としての何らかの理論があるのだろうが、彼らにとって、そんなことは全く関係無いはずだ。

さかざきちはるさんの「ぴーちゃんと私」に、このような文章が出てくる。

-余分なものはいっさい持たない それが飛ぶためのきまり-

果たして、われわれ人間は、余分なものをどれだけ持っているのだろうか?
仮に余分なものをいっさい持たないとして、勿論、人間は飛べないのだが。

私が最近、心がけていることは、極力、その辺にあるもので何かを作ることだ。
例えば、最近は鳥小屋を作った。
私は鳥小屋を作った経験は無いし、最近流行りのDIYすらも経験が無い。
鳥小屋を作ろうと思った理由は、雨天時に、スズメとツバメが何らかの事情で傷ついたりして、飛ぶことが困難になった時、一時的に体を休める場所が、この世界の何処かに、一ヶ所は存在しても良いのでは、と思ったからだ。
このような思いつきで、私は大きめのベニヤ板を自宅の屋根裏部屋で発見し、それをのこぎりで切った。
そして、まな板が自宅にたくさん余っていたので、鳥小屋の土台と屋根は、まな板を二枚使用して、その周囲をベニヤ板で囲った。
あとは、とんかちで釘を打てば、四角形の木の箱になった。
最後に、のこぎりで、囲われているベニヤ板のうちの一枚の中央部分を四角形に切り抜くと、入り口ができる。
その木の箱を、ゴムのロープで玄関の門にある、やや高めの場所にそれをくくりつける。
いつかそれに、スズメかツバメが来てくれたら、その時になって、それは初めて鳥小屋になるだろう。
その辺にあるもので、木の箱(鳥小屋)を作ることができた。

スズメとツバメに共通していることは、人が住んでいる環境下に、巣を作ることだ。
スズメの巣はまだ見かけたことはないが、ツバメのそれはある。
京都は綾部市に移住したT夫妻の家に遊びに行った時、彼らの家の玄関に、ツバメの巣があった。T夫妻には子供が二人いて、長男か次男のどちらかが、私にこう教えてくれた。
「ツバメはね、ぼくたちがあげるものからは、巣をつくらないんだよ。」
ツバメは、泥と枯れた草だけで巣を作ることができる。
スズメは、泥は要らず、枯れた草だけで巣を作ることができる。
私は、木の箱(鳥小屋)を、 -家にあるもので- その辺にあるもので作ったのだが、色々な材料を組み合わせた。
ツバメは泥と枯れた草だけで、スズメは枯れた草だけで良いのだ。
枯れた草なんて、まさにその辺にあるではないか。その辺にありすぎて、われわれ人間にとっては、どうでも良いものだ。
しかし彼らにとっては、それらを組み合わせることにより、巣になり、そこから新たな生命が誕生して、飛び立つ。
もちろん人間とスズメ、ツバメでは生態系が異なるが、その辺にあるもので巣を作ってしまうという彼らの生き様を、私は見習いたい。
いつか、私が作った木の箱(鳥小屋)に、スズメかツバメが訪れてくれることを期待しながら。

マーベル・コミックに登場するキャラクターのジェシカ・ジョーンズはスーパーヒーローなのだが、それの象徴とも言えるコスチュームを着ないという、かなり型破りな設定だ。
しかし、彼女はコスチュームを着ない代わりに、常に同じレザージャケットを着ている。
その設定とレザージャケットが相まって、私にとって彼女は、非常に印象に残るキャラクターだ。
彼女のコスチュームとも言えるレザージャケット。一体、彼女はどのようにして、それを入手したのかというと、実は彼女、それを洋服屋から盗んだのだ。
まだ彼女が若かりし頃、自分が持っている力を制御できず、なりふり構わず自分のそれを使っている回想シーンが描かれている。
勿論、盗むのは良いことではないが、たまたま店に入り、その辺にあったレザージャケットを入手(盗み)して、今もそれを堂々と着こなし、ついには彼女の代名詞とも言えるまでにしてしまう設定に、私は格好良さを感じてしまう。
その辺にあるものを着こなせる人物は中々いない。
あれこれ選んで、悩んで、結局、何が着たいのか分からなくなるぐらいなら、いっそのこと、その辺にあるものをずっと着てしまおうという心意気を持つようにしたい。
勿論、その辺にあるからといって盗むのは、以ての外だが。

「弘法筆を選ばず」ということわざがある。
何かの道を極めた人は、道具の良し悪しに関わらず、最高の仕事をするという意味だ。
弘法筆を選ばず、その辺にあるもので最高の仕事ができると理想的だ。
「このメーカーの、この製品でないと」などと御託を並べているようでは、まだ道を極めていない。
そのようなこだわりを持ち、それに縛られてしまってはいけない。
インターネットが世の中に普及したことにより、何でもすぐに手に入れられるようになった。
一見して便利だが、その代償は何かを手に入れないと、何もできないということではないか。
何もかも手に入れず、その辺にあるもので最高の仕事ができるように心がけたい。

柳生石舟斎は、「無刀取り」という極意を完成させた。
「無刀取り」とは、武器を持たずして、相手の武器を取り上げて、自分の武器にして勝利を収めるという極意だ。
井上雄彦の漫画「バガボンド」で、私はこの極意を知った。
この極意を知った当時の私は高校生であったが、その当時から今に至るまで、非常に印象深く、私の記憶に残っている。
この極意を日々の生活に取り入れられることができるのであらば、何も持たないでいることであろう。
別に断捨離を推進しているわけでも、物欲を無くせと説いているわけでもない。
それに加えて、「相手から何かを奪って、自分のものにせよ」ということを推奨しているわけでもない。
私は最近、「何も持たないでいよう」と心がけて日々を過ごすようにしている。
もちろん、生きていくためには金が必要だし、食料だって必要だ。
日々を生きていく上で必要なものは、勿論「持つ」ことにしている。
先述したことを心がけて日々を過ごしていると、その辺にあるもので日々を生きていけることを学んだ。

人との関わり方において、最近、変化が生まれてきた。
私は何も持たないようにしているので、「その辺にいる人たち」に頼るようにしている。「その辺にいる人たち」と文字にしてしまうと、私の家族や友人や仕事仲間に対して、かなり雑な扱い方をしている風に受け取られるかもしれないので、「周囲にいる人たち」にしておこう。
以前は、周囲にいる人たちに、私は頼ることをしなかったが、最近は違う。
何か分からないことがあれば、すぐに相談するし、自分では無理だと直ぐに判断したら、遠慮せずに頼むことにしている。
勿論、周囲にいる人たちには、時間をかけて、私の出来る限りの丁寧なコミュニケーションを取った上で、頼るようにしているので、相談や頼み事をすると、その後、彼らはしっかりと対応してくれる。
「持ちつ持たれつ」、人との関わり方で言えば、この言葉が最適だ。
お互いの存在に感謝をして、日々を過ごすようにしたい。
何も持たないということは、逆説的にいうと、何もかも持つということになるのではないか。

ここまで「その辺にあるもので」とか「何も持たない」と書いておきながら、私は革と本が好きなので、それらを購入して、収集している。
私は「その辺にあるもので」作ることができないと判断したら、迷わず金を払う。
持つ必要があるなら、持つようにする。
私は最近、自分ができる範囲で、できることをするようにしている。
もしかしたら、その辺にあるもので、全てを作ることができる日がくるのかもしれない。
その日がくるまでは、もう少しだけ、スズメとツバメを観察していよう。