Perfect Daysを楽しんだのだけど、それ以上に批評がこわい。
遅ればせながら、役所広司さん主役のPerfect Daysを見てきた。
日曜日に家に一人でおいていくのが憚られて、無理やり小学生の息子を連れ行ったら、開始30分くらいで隣で少年は小さなイビキを書いて寝はじめてしまった。考えてみれば、YouTubeやTiktokのショート動画のテンポに慣れた小学生(いや、大人でも?)には、きっとあまりにスローに感じられるような展開。ただただ、抽象的な影や木漏れ日を表現していたり、全く同じように見える1日を繰り返していたり、おそらくは見る人の内省のための余白もあちこちに含んでいる。「ああ、そうだこういう間合いに耐える筋力みたいなのが衰えているんだった。Netflix2倍速で再生してる場合じゃないわなあ」っていう、本質とは全然関係ない気づきもあった。
あらすじはあちこちに書いてあるので私は割愛するのだけど、私の感想としては、「掃除ほど気持ちいい仕事ってないよなって私も思ってたぜ!」、という共感の気持ちが一番前に出た。そしてデジタルと効率と資本主義のカスミに支配されて全く丁寧に生きていない私が言うのもアレだけど、「静かに丁寧に生きる中の喜びを大事にしたいよね」というのも、ものすごく共感する。実践できてないけど。
んで、インターネット上に落ちている映画評を少し読んでみたら、「平山はフェイクで、いつでも金持ち社会階層に戻れるから余裕があるんだ」とか「ホームレスをインビジブルに扱うなんて御法度」とか厳しい意見がいっぱいあって驚く。え?そんなことまで気にしなくちゃいけないの?フィクションなのに?と。
ただちょっと意地悪な見方をすると、もしかしたら、プロデューサーがユニクロの柳井さんの次男ということで、東京のトイレの宣伝をしている暇があったら俺に10万円ちょうだいよ、金持ちのやることは何にしても気に入らないからケチつけなくちゃだわ、強者は批判しなくちゃだしな、みたいな無意識の視点がそういうことを言わせるのかもしれないなとも思う。この映画にもし柳井さんが絡んでいなくて、ヴィム・ヴェンダースと渋々学園の映画部が制作をしていたら同じ評価になっただろうか。「こんな男性像は学生の幻想だ」くらいで終わるんじゃないだろうか。
という、インターネットの隅っこからの観察日記はさておき。
実感として、清掃や調理は動的瞑想だな、と思う。トイレ掃除は極端な例だけど、私の仕事でもエクセル作業とか、封入作業、レポート作りでも淡々と何かをこなしている時には私も瞑想状態に入ることができる。ただ、多くの場合は横から話しかけられたり、他者からの見え方を気にしたりしなくてはいけなくてなかなか集中できない。
私にとっては、土曜日に3時間ほどかけて家中を掃除する時間がそれに一番近いのだけど、毎日仕事を通してその瞑想状態を実現できる平山さんという人がいる、というコンセプトはすごくわかるし憧れる。
だから、「いい気になって成功してるつもりだろうけど、あなたの意識、今日もみじん切りだったよ?いいの、それで?」というのが受け取った問い。そして、このままでは良くないことも、本当はわかっている。だからそれに気がついているけど変化を起こしたくない私たちの中の小人が、「あんなのフェイクだ」「美化しすぎだ」と騒ぎ出すのでしょう。