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夏の終わりの誕生日と森山直太朗が歌う「夏の終わり」

今朝は普段と何も変わりのない感じで8時台に出社準備をし、歩きながらLINEを見ると、京都に住む大事な友人から、「今夜、自分で行くつもりだったんだけど、行けなくなっちゃったからワカメちゃんよかったらどう?渋谷のNHKホールなら近いし」と、森山直太朗のコンサートチケットをいただいた。私の誕生日はこの時期なので、空から誕生日プレゼントが降ってきたーーー!!!と他の予定を調整してありがたく受け取ることにしたのが午前10時。打ち合わせをいくつか動かしてスペースを作ってから、一人で聞いてきました、森山直太朗。

私は20年くらい前に、カナダ人のビジュアル系(絵画系)アーティストに「君の誕生日は夏の最後の日だね」と認定をもらって以来その言葉を信じていて、この日を境に秋と冬が一気にやってくると思ってる。

それに被せて、である。
森山直太朗が今日歌ってくれた、「夏の終わり」。ちょっと沖縄っぽい音階に、20年ぶりの答え合わせ。

もうこれを聞いたら、ああ、私の夏はこれで終わりということでOKです!という気持ちになって涙がたくさん溢れてきた。夏の終わりっていう表現には、単に気温の変化だけではなくて、自分の中で「終わったこと」を「終わったこと」として思い出して定着させる作用がる。

そもそも今日は、昼間にコーチングを受けていて、自分の幼少期のニーズを振り返っていたことに涙のきっかけもある。母から可愛がられ、認められたかったのに、何をしてもブサイクな次女のポジションから抜けられなかったこと。母は母で苦労があったんだろうと今ではわかること。だからと言ってこのモヤモヤが簡単には終わらないこと。無理矢理無かったことにしなくてもいいこと、などなど。結局、「あなたはあなたのままで十分ですよ。十分に、頑張ってますよ。お疲れ!」と自分に声掛けをするしかないらしい。そんな言葉を胸に抱えながら聞く夕方の森山直太朗に泣かないわけがあろうか、いや、ない!

さらに、今日は会社の同僚から不幸の手紙みたいなの(「あなたとの会話が負担なのです」という主旨)もありがたく受け取って、これまたどう対処すんだワカメ、みたいな案件に対応していたのも手伝って、涙は遠慮なく勢いよく溢れ出る。ぶひゃー

私は多分、平均的な小学校5年生レベルのいじめについて状況整理するくらいの知恵は持ち合わせているのだけど、30歳過ぎて世界に対して恨みを抱いている精神をほぐす能力は、まだない。

それで直太朗さんの公演開始のタイミングで、「咳などの生理現象はご自由に」と言ってくれたのに甘えて、グスグスと涙と鼻水を流しながら聞いて、ハンドタオル一枚をびっしょり涙で濡らした。でもおかげさまでとても良い夏の終わりの日になりました、ありがとう直太朗さん。

備忘ついでに書いておくと、森山直太朗さんのテーマはきっとMortality(人はみんな死ぬということ)なんだろうと私は思った。もちろん恋や愛を歌うのだけど、根底に流れる一番強いメッセージは、「人は死ぬということ」のように感じる。なぜそうなったのかはわからないし、私の勘違いなのかもしれない。でも、もし機会をいただけたら、森山さんのその原風景を掘り出す対話をしたいと思った。でも、いつになるかわからないのでとりあえず帰宅してからおさらいで「夏の終わり」を聞いている。

そしてついでに、その致死性・Mortalityについてのメッセージが今日、たまたま午前中に流れてきた18年前の女性上司の訃報としょっぱい感じで絡み合っている。転職したての頃に色々お世話になった人。同時に、ご本人が解消できない苛立ちを私にぶつけることがあり、飲み会でサラダを取り分ける私に「女子力高ーい。そしてだからこそあなたは気が弱いのよ」とせせら笑った人でもありました。夫に今日彼女に逝去の旨を伝えると「葬儀に参列する必要なし」と珍しく厳しいお言葉。私としては、お世話になった部分もあるし、どちらでもいいのだけど。死んだからと言って生前の行いが全てがチャラになるわけではないし、むしろくっきりするな、というのを目撃した。これは「終わったこと」が、引っくり返せない確定的になる現象。

覚悟を決めて生きないとね。
今宵はおやすみなさい。

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