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リアルライフ サツキ荘 #4

2-4歳


ドア

昭和の時代には玄関が開けっぱなしは、よくある事だったと思う。

ある日、母と昼寝をしようとしたのか横になっていた時に、玄関のドアを閉めてきてと言われた。素直に閉めに行き、ドアを閉めようとした時に、ヒンジの部分に右指を挟み、怪我をした。

ドアを閉めに行って、泣きながら戻ってくる僕に母は優しく手当てをしてくれた。

どうでもいい話だが、私の記憶には残る出来事だった。

肉体的な痛みは記憶に残りやすいと、身を持って思い出している。

建築基準法

日本の建築基準法では、玄関のドアは外開き、内開きは関係ないのであろう。玄関を内開きにするとスペースの問題で殆どの家の玄関は外開きだ。

外開きのドアは、地震や災害時に瓦礫が邪魔して中に閉じ込められる危険性がある。

サツキ荘の玄関は小さかったし、敷居も高かった。当時の玄関はどこも高かった気がする。

口裂け女の公園

近くには細長い公園があった。Googleマップで確認したが、昔の鬱蒼とした印象とはかなり変わっていた。

当時は口裂け女が出るとかで、怖い思いをしたから1人で行った記憶は無い。人通りが少なかったからか、親から1人では行くなと言われていたのだろう。

父は団塊世代で、当時の若者は金の卵と言われていた。実際に、父はド田舎と言われる様な地方、ミッドランド出身だ。15歳でミッドランドからシンシティに渡った。当時のミッドランドには電車は無く、汽車で来たと言っていた。汽車とは蒸気機関車である。

私は日本で動いている汽車を見た事が無い。

1950年代の頃は地方と都会の格差と言うか、技術やインフラが違いすぎて、父は外国に来たみたいだったと語っていた。

それ以来シンシティに70年近く住んでいるが、父には未だに故郷の訛りが残っている。

幼児期の父との記憶が無い

実際に家に居ない時が多かったらしい。朝早く出て、夜遅く帰る。父はこの時期に独立をして小さな工場を始めたので一生懸命に働いていたのだ。

サツキ荘で覚えているのは、父が母と姉、私の3人を背中に乗せて腕立て伏せをした事だ、2,3回は出来ていたと思う。「スゲー、パパ頑張れ」と、はしゃいでいた。屈強な男だった。

山とゴルフ

父は登山で鍛えたと言っていた。当時の登山家は結婚したら登山を辞める人が多かったらしい。結婚しても登り続けた男は死ぬ奴が多かったと言っていた。

山を降りてからは、ゴルフが生涯の趣味となった。現在でもゴルフをしている。

当時は週6で働き、休みの日はゴルフだったから、子供と遊ぶ時間は無かったと思う。

団塊世代の昭和時代は、どこもこんな感じで、父親は子供に時間を掛ける時間は少なかっただろう。

サツキ荘で、私と一緒に風呂に入ってる写真があった、若き日の父だった。


シンシティのダウンタウンで育った母は、有名なデパートで働く、いわゆるデパガだったと聞いていた。

詳しく聞くと、会計課だったので、事務員だった。卑下する訳ではないが、華やかなイメージとは少し違う気がした。

有名デパートのデパガだったので、オシャレだったのは確かだ。70年代にミニスカを着た写真があった。母の若い時のミニスカを見ると、小っ恥ずかしく思うのは何故だろう。

父も若い時は洒落者で、ズボンのシルエットを崩したくないから、ポケットは全て縫い合わせて、使えなくしていたらしい。

確かに財布を後ろポケットに入れると形が崩れるし、財布は落とすし、良い事は無い。ヒップラインもボケるので私もバックポケットは使わないが、ここまで徹底するのは凄いと思う。

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