面倒なことは面倒
大学時代、友人たちと自主ゼミを開き、こむずかしい数学の洋書をみんなで読み進める時期がありました。当時から私は筋金入りの凡人でしたが、自分の平凡さを認められない学生特有のうぬぼれも一丁前に抱いていたので、その学問に対しての喜びというよりは、大層な専門書を勉強している自分の姿に喜びを見出していたものです。とはいえ、そんな取るに足らない自意識を有り余るほど勉強に付き合ってくれた人たちは優秀で、自分は逆立ちしても彼らに及ばない自覚がありました。そんな彼らと一緒に勉強できるからには、あわよくばその勉強姿勢も学べたらいいと思っていました。というのも、ゼミの題材となる書籍はこれまで全員が触れたことのない新しい分野だったのです。そうなると、周辺知識の文脈に裏付けされていない、もっとピュアな思考の展開が垣間見えるだろうというのが私の見当でした。
そのゼミでは最初の30分間は各自で教科書を読み、その後みんなであれやこれやと理解をすり合わせる形をとっていました。ちなみに私には数学の才能がさっぱりありません。たとえば先人の「線形代数は勉強しておいた方がいい」という助言を無視して適当に単位をとった結果、線形代数の素養のなさで大変な目に遭ったエピソードが多数あります。そのため当然ながら、30分の時間で書籍を読み進めても分からないことが数多くありました。
ゼミを進めて分かった意外な事実
ところが、ゼミを進めていくうちに思いもよらぬ発見がありました。まず第一に、私と彼らでは分からない箇所に大きな差がなかったということです。私はてっきり、自分が全然分からないところでも彼らは初見でトントン拍子に理解するものだと思っていたので、これには非常に驚きました。それだけでなく、「この部分を理解するにはかなり労力が必要」だとか「この説明は回りくどくて向き合うのが辛い」と感じられる部分もおおむね一致していました。これはもちろん私に意外と能力があったわけではなく、私が勉強の際に面倒だと感じることは、優秀な人にとっても案外面倒に感じられるものだと判明した、ということです。それまで私は「複雑なことに対して面倒だと感じてしまうのは未熟な証だ」と思っていたため、この出来事はなんだか後ろめたさから解放されるものに感じられました。ただ一方で、「面倒なことはすごい人にも面倒である」という事実は、私と彼らを隔てる要因が何であるかを如実に示すものでもあったのです。
面倒になってからが本番
私は分からないことがあれば、大抵はその部分を後回しにしていました。勉強で分からない部分に遭遇すると、まるで脳が圧縮袋の中で空気を抜かれていくような苦しさを覚え、その不快さに頭が支配されて細やかな思考などできなくなります。その場合は考えるのを一旦やめて、後日改めて取り組むと、リフレッシュされた頭が初見ではないものに少しの耐性を得て、腰を据えて理解に取り組めるというわけです。
しかし、「分からん、あとでやろう」と速攻で飛ばす私とは対照的に、彼らはやれるところまで粘ろうという持久力があるように感じられました。たとえば、私も彼らも証明が理解できないままで終わったとしても、彼らは定理の解釈で詰まっているのか、それとも前提となる数学の知識が足りていないのか、など糸口を探り出すことを怠りませんでした。
特に差を感じたのは、ゼミが終わってさあ帰るぞとなったときに「さっきまで考えてたんだけど、あの部分はつまりさ……」と話しかけられ、駅に着くまでひたすら議論に付き合わされたことです。ちなみにこういったことは今回のゼミ以降でも頻繁にあった話なのですが、相手はもれなく鋭い考察を繰り出してくるため、私は酸欠のぐったりした頭を絞りきって、議論のお眼鏡にかなう思考を差し出しつづける必要がありました。それに耐えかねて「分からないことを考え続けていると、考えることをやめたくなるんだよね」と溢したら、「当たり前じゃん。そういうものだけど考えるんだよ」と返されたときの衝撃を、私は一生忘れないでしょう。ここで気づいたのは、私は分からないことを一旦飛ばす癖がついているあまり、そもそも物事を少し掘り下げる姿勢すら放棄していたということです。そして、「彼らも同様にそれを放棄しているが、有り余る才能によって少ない労力でも理解できているだけ」と思い込んでいたのです。その見当に反して、ゼミで彼らの途方もない忍耐力を目の当たりにしたとき、私としては一瞬で大差をつけられているような気がし、そういうものを積み重ねられると今後まったく敵わなくなると感じたものです。
難しいものも難しいままで
次に気づいたのは、彼らは難しいものをありのままの形で理解しようとする胆力があるということでした。
私が身を置いていた環境では、「頭のいい人は難しい問題を簡単なものに分解して考えることができる」という言説があり、私はそれをなんとなく真実だと思っていました。ここで私が見落としていたのは、難しいものを簡単なものに分解するためには、まずは複雑なものと対峙することが前提となる、ということです。複雑なものを拒絶せず、まずありのままの姿に向き合わなければ、それがどんな簡単なものを含んでいるのかを正確に見極めることは困難なのです。
それ以前に、ゼミに参加していた彼らの様子を見ていると、彼らは難しいものを簡単なものに分解するようなことはしていませんでした。言葉にするのが難しいのですが、彼らは別の分野で培ってきた抽象的な思考の枠組みを一時的にゼミの分野に当てはめて、慣れてきたらゼミの分野に沿った枠組みを構築し、だんだんそちらにシフトしていくような傾向が感じられました。変な話かもしれませんが、彼らは過去に考え尽くしたおかげで、新しいものごとに対して考えなければならない量が私より少なくなっているのです。これまで培ってきた知識をメタ的に活かしている彼らの姿を見て、幅広く本を読んだり勉強したりすべき理由はここにあるのだと感じました。
また、難しいものを理解するためには、簡単なものに分解するというよりは、簡単なところまで立ち戻るべきというのが本当のところだろうとも感じました。彼らはゼミで分からないところがあったら、近傍分野の基礎的な書籍を読んでいることが多かったように思います。ここでいう基礎的な書籍とは、大学数学に馴染みがない人にも分かりやすく書かれていて、彼らにとっては簡単すぎるのではないかと思うような、そして当時の私であればちっぽけなプライドに阻まれて手を出せないような、本当に初歩的な書籍でした。つまり「簡単なものに立ち戻る」とは、未知と既知の境界まで遡ってギリギリ未知のものから歩み直すいう話ではなく、「自分では初歩的だと思っているが実のところ理解できていないもの」を洗い出すことを意味しているのです。
「分からない」を飼い慣らす
ゼミをする前の私は、頭のいい人は自分とはまったく違った脳の作りをしていて、彼らは魔法や裏技のような思考で”すべて”を理解しているのではないかと思っていました。しかし実際のところは、彼らも泥臭く地道な思考を積み重ねており、それが私よりずいぶん先のところまで進んでいたというのが真相だったようです。
(ちなみにこの数年後に『数字であそぼ。』という漫画を読んだら似たようなシーンが出てきて笑った記憶があります。)
突き詰めて考えたみたところ、私と彼らの差の根底にあったのは、「分からない」という気持ち悪さを自己の支配下に置けるかどうかであったように思います。そして、私がなぜこれを出来なかったかも考えてみたところ、長年育んできた認知の癖に由来を見出しました。
私は大学に入ってしばらくするまで、理解できていない状態を表に出すことは「負け」を示すことだと捉えていました。10代を(試験)勉強に適応させて過ごすと、大なり小なり「勉強ができる人間は大変素晴らしいし、アホは映す価値なし」といった優劣思想に遭遇するはずです。私はその言説でいうアホ側に回ることも多かったため、自分の中に芽生えた「分からない」を無視することで心を守っていた気がします。
でもしだいに学力で競い合って一喜一憂するような環境ではなくなり、知を探求する喜びは、点数の序列争いに勝つ喜びとはかなり別のところにあると知るようになります。そうなると「分からない」という状態は、私のたわいもない面子を傷つけるものではなく、新しい知見を得るときの嬉しさのきっかけとなるわけです。この捉え方の変化を得られたことが、書籍の知識を習得する以上に、ゼミでの収穫となったような気がします。
面倒なものは誰にとっても面倒だけど、そういうものだと割り切って粛々とやっていくと、いつかふと、面倒だと思う気持ちを傍に置いて平然と打ち込めるときが来るのだと思います。これは勉学に限った話ではなく、楽器の基礎練習や、日常の単調な作業などでも同様です。まあ、その”いつか”に辿り着くまでの道のりは、とても苦しいものではあるけども。