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口笛くんとの遭遇

3年ほど前。小春日和の駅のベンチで、私は電車を待っていた。

人の気配に振り向くと、若い短髪の男性が、小さな紙を差し出している。
見ると、しわくちゃなメモに強い筆圧の鉛筆書きで「くちぶえ」とだけ書いてある。困惑して彼の顔を見ると、真剣な目で

「ふける?」

「ふ、吹けるけど、ここで?」大きく頷かれて仕方なくピューと吹いてみせた。彼は目をキラキラさせて、
「なにか、うた!」

周りの目を気にしつつ、今度は『チューリップ』を吹いてみた。
すると、
「いまのうた!」

童謡は幼すぎたかと『世界に一つだけの花』を吹いてみると、
「もういっかい!」

いつの間にか彼は隣に座り、うれしそうに私の手を握っていた。
昼日中、初対面の男性に手を握られるとは。
不思議と嫌な感じはしなかった。
日向ぼっこをしながら、心地よい風の中で吹く口笛の、なんと楽しいこと!

何曲吹いたか、楽しい口笛会は私の電車が来てお開きとなった。
「またね、またね!」と手を振って別れたけれど、あれきり会えていない。

口笛も手を握るのも、コロナ禍の今では難しいだろう。あの時に出会えたことは、幸運だったのかもしれない。
口笛くん、元気かな?と電車を待つたびに思い出している。

2016年 朝日新聞 ひととき欄 ボツ投稿

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