a study in "Idiot Savant"
注意
・この文章は、ユウさん(Ⅹ(旧ツイッター)@kurousa_box)のノベルゲーム「Idiot Savant」について、僕が感じた魅力を記したものです。
あくまで僕という一人のプレイヤーとしての解釈を記したものであり、作者のユウさんの意図とは異なる可能性があります。
また、作品の内容に大いに踏み込んでいますので、当然ネタバレがあり、全エンドクリアを前提にした内容です。
・「Idiot Savant」の内容に応じて、精神疾患などの話題にも触れますが、作品同様、現代ファンタジーとして読んでいただき、抵抗感がある方は閲覧を控えていただければと思います。
また、この文章を読んだことにより、精神に異常をきたすなどの被害があっても責任は負えません。
・この文章は僕のファン作品であり、あくまでフィクションです。
先日、ティラノフェス2023がフィナーレを迎えたが、さらに一年前、ティラノフェス2022の話になる。
フェス2022では、僕はスポンサー賞をユウさん(@kurousa_box)の「Idiot Savant」にお贈りした。
その内容は以下のとおりである。
そしてnoteにこんなことも書いた。
こう書いてから、はや一年以上。
ようやくここに記すことができる。
上記にもある通り、これは「感想」でも「紹介」でも「評論」でもなく、僕はただ、自分の心の琴線に触れたことを語りたいだけである。
よって、特に印象的な10個のセリフを取り上げ、それらをキーにしながら、この物語の魅力を語るという形式をとりたい。
僕は紅茶や緑茶を飲む方が多いが、コーヒーを飲む場合はブラック・ホット・コーヒーを飲む。
作品のキャラ達とともに、コーヒーを飲みながら、この作品に向き合っていこうではないか。
ちなみに僕はティラノフェス2022では『パラドクス研究部の解けない謎のナゾとき』で参加し、ユウさんから同作について、スポンサー賞(黒うさBOX賞)をいただいた。言うまでもなく、「パラドクス」をテーマにした作品であった。
まず最初に取り上げるセリフは、もちろんこの作品の冒頭で目にすることになる、あのセリフである。
①「何を疑う事がある。私が愛するのは生涯、君だけだ。」(忌木リン)
一般的に、登場人物の心情の吐露、特に愛の告白を物語のクライマックスにもってくることは、よくあることだ。
その際、お互いが相思相愛であることが判明し、大団円を迎えることも往々にしてよくある。
しかし、この「Idiot Savant」なる物語は、まったく異なる展開を見せる。
「何を疑う事がある。私が愛するのは生涯、君だけだ。」
この言葉が発せられるのは、物語の結末ではなく、プレイヤーが最初に目にする冒頭の物語においてである。
通常の思考であれば、愛を告白し、相思相愛であれば、もはや話はそれで終了。
幸福な物語にしかなりえない。
「Idiot Savant」(このタイトルは作品全体のタイトルでもあり、冒頭の物語のタイトルでもある)において忌木リンは、灯藤ユウヒに愛を告げる。
ユウヒもまた、リンを愛している。
しかし……ではなくここでは「ゆえに」という接続詞を使うべきか……ゆえに、極度に純化した彼らの想いは、客観的に言えば委託殺人という形の衝撃の結末を迎える。
ユウさんと同様の思考・嗜好・志向を持つ(と勝手に親近感を覚えている)僕も、ゲーム製作者としてこうした物語を書くことはできる(と自信過剰に思う)。
が、書くことはできても、これを最初に持ってくることは絶対にできない。
一般的に理解されにくいであろうという判断が先に出てしまい、ゲーム中に用意する複数エンドの一つとして見せるのが、せいぜいである。
しかし、最初の結末として提示するからこそ、その重みがあり、これがすべての原点の結末であるからこそ、その後の展開が活き、「Idiot Savant」全体の物語の強度を支えているのである。
それにしても、ノートを拾われ、それを隅々まですべて解読され、己のすべてを読み解かれるとは、なんという甘美なことであろうか。
「読んだのか?」
「意外と可愛い人間だね」
そのときユウヒが味わった感情を追体験できる幸福に浸りたい。
②「一生懸命咲いていたから」(凍心ココ)
美しく咲いている花を見たとき、人はいかなる感情を抱くだろうか。
その美しさに感動する、あるいは、後に失われる一瞬の美としての儚さを感じる、また、己の醜さと対比して花に憧れる。
それらはみな、通常の心の動きである。
しかし凍心ココのように、過度に世界との関係を意識してしまう者には、そうはならない。
「私はこの世界にいてもいいのかな?」
それは思ってはならない疑問であった。
資本主義の社会においては考える必要もないことだった。
しかしその疑問を抱いてしまった彼女は、綺麗な世界に対して、己の醜さが際立つあまり、感情が溢れ、そして手が――いや、足が出る。
道端に咲いた花を踏み潰し、そして「一生懸命咲いていたから」と呟く。
兄国余暇はそれを止める術を持たない。
「一生懸命咲いていたから」と、踏み潰す。
言うまでもないことだが、凍心ココは別に残虐性を持って花を潰したのではない。
この世界に疎外感を覚えずにはいられない彼女の心がそうさせたのである。
居心地の悪さを感じながらも仕方なく、あるいは、そんな居心地の悪さを忘れて図々しく、世界に居座るようになることを一般的には、大人になった、と形容する。
凡庸な我々に残された世界を生きる手段はそれしかない。
しかし、幸か不幸か、ココは違った。
どこからか魔法のように縄を取り出し、この地上に別れを告げたのだ。
惰性で生きる者が、進んで死を選ぶことはない。
積極的な死とは、一生懸命に生きたことの証明である。
そう、ココもまた、この世界に咲いた一輪の可憐な花であった。
③「死にたがる生物なんて――人間くらいでしょう」 ネズミちゃん
多くの人々は、何かを独占的に所有する欲望を持っている。
一方、ある種の人々は、所有される欲望を持っている。
この発現の一形態が、自身のドール化であろう。
両者が幸福にも噛み合った事例として、我々は優姫虎之助とネズミちゃんの物語を知ることになる。
そこには奇妙な共存関係が成立しており、虎之助もネズミちゃんも、その構造に極めて自覚的である。
(そして支配・被支配の関係は時に逆転をも見せる)
一般的にこうした共存関係は、どちらかがその依存に徹底できないことによって、破綻を迎えることが多い。
ありふれた話で言えば、所有者が他のものを欲しがること、あるいはもっと
平凡な話で言えば、被所有者が逃亡することである。
が、この物語においては、両者ともに完全無欠の依存を行い、鉄壁の守りを固める。
ネズミちゃんは、家から一歩も外に出ない。
ところが、その強固な壁も、夢の世界にまではさすがに及んでいなかった。
その奇妙な境界の世界において、彼女は虎之助ではない人間、という世界の外部に接することになる。
虎之助にとってこの事態は許しがたいことであった。
彼はネズミちゃんを絶対に己のものとするために最終手段に出る。
潔いネズミちゃんは決して逃げ出すこともなく、「私を殺していいのよ」と告げる。
「死にたがる生物なんて――人間くらいでしょう」
そのセリフを口にできたネズミちゃんは、そのとき完璧なドールに、いや、マウスと化し、言葉と現実の一致に到達した。
④「相手が自分を愛している」ことはつまり自分の思い込みでしかない 《神》
人は、己の認識からは絶対に逃れられない。
自分の枠組みを超えることは絶対にできない。
新たな認識を手にして、枠組みの外部に出たとしても、そこがまた己の認識、己の枠組みになるからだ。
人は、この檻の外に出ることはできない。
究極的に己の内部の問題でしかないことに、なぜ我々はここまで苦しむのか?
幸福とは、脳内に快楽物質が放出されることである。
化学反応と電気信号の問題である。
多くの苦労の果てに、社会的に意味のある何かを手にすることと、薬物によってそれを夢見ることの差異はどこにあるのか。
《神》は「000」において「奇行」を行う。
ただし、それを奇行と呼ぶのは、一般的な社会常識の観点である。
それが理論的に奇行であるという証明はできない。
理論的に絶対的に奇行である行為など存在しない。
こうした危険な領域に踏み込むのが「Idiot Savant」だ。
この作品世界に触れすぎると、もう一般的な日常の感覚には戻れないかもしれない。
発狂とは、理論の放棄ではない。
理論の必然的な終着点なのだ。
⑤「”この物語が終わったら、ボクにその物語を修正させてよ”」(八ノ巣せいら)
この物語の登場人物の中で、せいらこそが、最も「ゴシック的な」キャラであると感じた。
僕が贈ったスポンサー賞「Therapy for "i" 賞」も、当初は「ゴシック賞」としようかと思っていたのだが、「ゴシック」の意味が分かりにくいかと思い、「Therapy for "i" 賞」とした。
ゴシックと言っても、何もせいらが黒い服をまとっているわけではなく、思想としての話である。
それは、自然あるがままを受け入れることの対極に位置するものだ。
己の意志でもって、世界を判定し、世界を解釈、修正しようとする行為。
この世界に否を突き付け、捻じ曲げようとする不遜な行為である。
それをゴシックと呼ぶのだ。
この意味において、祈りと呪いは等価である。
「この結末、気に食わないなぁ」
せいらのその愛すべき我儘が、MERRY BADを招くことは必然であった。
コーヒーブレイク
ここで少し休憩を入れよう。
それにしても、なんという作品だろう。
連想せざるを得ないのは夢野久作の『ドグラ・マグラ』である。
あの奇怪としか言いようのない物語。
「これを読む者は一度は精神に異常をきたす」とされる物語。
「Idiot Savant」もまた、これをプレイする者は一度は精神に異常をきたすノベルゲームなのだろうか。
10個のセリフを取り上げ、深く物語の世界に入り込んできている。
ここで5個まで終わった。
残り5個、このまま進んでしまって良いのだろうか?
このままでは精神に異常をきたすこともありえるのだろうか?
あるいは、一度は異常をきたすどころか、元に戻れなくなるかもしれない。
しかし、僕はそんな物語を求めていたのだ。
求めていたのはそれだったのだ。
己の正気を生贄として差し出し、引き換えに幻視を得るというならば、これほどの幸福はあるまい。
さあコーヒーをもう一杯。
続けよう。
⑥「ユウヒとリンは出会わなかった」(八ノ巣せいら)
「Idiot Savant」の物語への介入において、最も根本的なエピソードである
「ノートを渡す」という行為を変えることができる。
その結果、すべての物語は発生しなくなる。
出会ってしまったら、悲しい物語も始まる。
しかし、それを恐れて物語を始めなければ、何も始まらない。
「Idiot Savant」は選択肢から続く物語の構造によって、それを強く訴えている。
弱さを見せるキャラなどどこにもいない。
みな、己の主義にどこまでも忠実である。
意志をもって世界を生きるとはこういうことなのだと教えてくれるのが「Idiot Savant」だ。
⑦「彼女は恋をしない。必要がない」
「Idiot Savant」においては、登場人物たちはそれぞれ組み合わせを持っている。
忌木リンと灯藤ユウヒ。
凍心ココと兄国余暇。
優姫虎之助とネズミちゃんなどなど。
そうやって、組み合わせが続く中、八ノ巣せいらは「彼女は恋をしない。必要がない」と形容される。それこそ、彼女がモノポールとしての役目を持つことを示すものであった。
物語において誰も愛さない彼女は、ゆえに物語を外部からとらえて、介入することが可能となる。
物語の中の愛という可能性を手放すことで、より大きな可能性を手にしたのだ。
彼女はこれが物語であることを知っている。
現実の物語ではなく、フィクションの「虚」構の物語であることを知っている。
しかし、人は己の立つ場所を正として考えるしかない。とすれば、彼女には「我々」の世界こそが「虚」構でしかないことも知っていた。
複素平面上で虚数「i」が90度回転で立ちあがるかのように、彼女はモノポールとして物語の中で立ち上がり、「虚」実の境界を飛び越え、「虚」無の中から救済の物語を引き出したのだ。
⑧「ぼくは何で人間なんだろう?」 御堂欠
人は自分自身という存在から逃れられない。
別の誰かになりたくてもなることはできない。
それが種を超えた場合はなおさらである。
空中を優雅にひらひらと舞う蝶。
それに魅了され、「ぼくは何で人間なんだろう?」と疑問を抱いてしまった御堂欠の哀しげな姿は胸を打つものがある。
無生物を愛する春岸終の姿とともに、それは人間が人間であること、人間をやめられないことの悲哀を感じさせる。
しかし、種を超えることはできないが、それを受け入れることはできる。
ハッピーエンドに向けて、周囲の中に自分自身を適切な関係で位置づける過程は、最初の結末が悲惨なものであったがゆえに、いっそう重みを感じさせる。
大事な行為というのは、面倒なものなのだ。
そして御堂欠のエピソードにおいては、何と言ってもフェリア症候群の症状の指摘がミステリとしても見ごたえのあるところだ。
御堂欠がノンを併発していることを春岸終に気づかせる過程は手に汗を握るものがある。
こうして「Idiot Savant」の物語はHappy Endを目指して進んでいく。
⑨「それを先輩が攫うんです。恰好いいでしょう?」(八ノ巣せいら)
理論で生きる凍心ココは、不幸にも自身が世界に拒絶されていることを立証してしまった。
その悲しい事実を超えようとする兄国余暇と八ノ巣せいらの奮闘は、忘れがたい。
「ココさんは、理論と結婚しようとしている。望まなくとも。」
「それを先輩が攫うんです。恰好いいでしょう?」
八ノ巣せいらのそのセリフはなんとも心強い。
そして兄国余暇による凍心ココへの説得――愛の告白と率直に言うべきか。
それは理論と感情の葛藤であり、そこに囚われるのも、それを超えるのも、結局は人間なのだと感じさせる。
オリジナルの物語が悲劇的なものであったがゆえに、一層この「Re:」は心が温まるものがある。
物語はこうして救済されていく。
バランスを欠いて崩壊していた世界は、それぞれのエピソードにおける二人が美しい対称性を持って救済の物語になっていくのだ。
⑩「じゃあ、これで、本当の、終わりだ。」
まだ寒さの残るある日のこと、僕はその店を訪れた。
同じ数字が3つ並ぶ奇妙な店名の看板を確認してから、緑色の扉を開けた。
実際に来るのは初めてだから、少し緊張する。
しかし中に入ると、カウンターとテーブル席が並ぶ何度も見た光景があり、
懐かしい感じすらする。
もっとも、いつもは扉に向かって、右手がカウンター、左手がテーブル席という画面を見ているので、今は左右が逆である。
自分がここにいるということに奇妙な感じを覚えつつも、壁際の空いているテーブル席に座る。
そして、この店の流儀に従って、ホットコーヒーを注文した。
ゆったりとした時間が流れているのを感じる。
ここでコーヒーを飲みながら、創作の構想を練ると楽しいだろう。
僕は電子辞書を取り出すと、とりとめもなく英単語を眺める。
ぱっと目についた英単語から物語を創造する、というのはよくやることだ。
reassure(安心させる)……rebel(反逆者)……recapture(取り戻す)……receiver(受け取る人)……reckless(無謀)
「ここ、良いかな?」
不意に声をかけられた。
答える間もなく、その長い髪の人は僕の前に座り、喋り出した。
「もっとも、喫茶店に自席などという概念はないわけだから、わざわざ許可をもらわなくても空席であれば座って良いはずだ」
そして、付け加えた。
「ただし、空席と見えても、そうでない場合があるから注意が必要だがね」
彼女の視線は店の奥に向かっている。
そちらをちらりと見ると、テーブル席に帽子を目深に被った人の姿が見えた。
そしてもう一人、確かに見えた――気がした。
なるほど、あれが絶対に裏切らない友人、幣原煉介か。
「ほう。見えるとはね」
改めて向き合うと、腰まで伸びた髪が外の光を受けて輝いている。
黄金色をした瞳が眩しかった。
ユウヒは、この目に吸い込まれたんだなと納得する。
彼女にノートを隅々まで読まれ、解読され、その果てに殺されるなど、いかなる甘美か。
と、本人を前にいらぬ妄想に走りそうになる。
「これで物語は終わりだ」
いつの間にか、《神》が横にいた。
「もうすぐ時計が終わりを告げる」と《神》。
「ここの時計の音色を知っているか? 物珍しい音がするぞ」と忌木リン。
僕は店内を見渡す。
彼女が、いない。
と、勢いよくドアが開いた。
「間に合った!」
肩で息をしながら、小動物のように全力でこちらに駆けてくる。
「良かった! 間に合って! ボクの話も聞かないまま終わりなんて、納得しないからね!」
大きな瞳でこちらを見てくる彼女こそ、八ノ巣せいらだ。
「ありがとう。本当にありがとう! おかげで、HAPPY ENDを迎えることができたんだ!」
彼女の元気さを見ていると安心する。
「さて、お別れの挨拶は済んだかい?」
《神》の問いに、せいらは首を横に振る。
「ちょっと待って、あのね、あのね、実はね、プレゼントがあるんだ」
頬を赤らめながら、大きなくるりとした目で僕を見つめて、彼女はそう言う。
「ほら、これ、喜んでくれるといいんだけど、とっておきの<選択肢>だよ」
そのとき、すべての音が消え、空中に <すべてを初期化しますか?> と表示された。
何だ? 一体何の選択肢だ?
事態を認識する暇も与えず、せいらの白い指が「はい」を押す。
「おや、時間だ。時計が鳴る」
《神》がそう呟くと、ブウウ―――――ンンン――――――ンンン、という奇妙な音が鳴り響いた。
僕の記憶が、薄らいでいく。
「だってこれでお終いだなんて、納得できないよ」
せいらの発言に、《神》とリンが苦笑する。
「またせいらの我儘が始まったな」
「しつこいな。一体何度目だ? よく飽きもせず繰り返すものだ」
それでは、再び物語を繰り返すのか?
いや、僕は、今まで、何度もこの物語を繰り返してきたのか?
「ボクのこと、絶対に忘れないために、全部忘れさせてあげるから」
「良かったじゃないか、最後にパラドクスが聞けて」とリンが笑う。
右下に浮かび上がったのは、果たしてMerryなのか、Badなのか、Happyなのか、それを確認する余裕もないまま、僕の記憶は消えていく。
「逃がさないよ。絶対に」
最後に見えたのは、視界いっぱいに広がる、せいらの満面の笑みであった。
(Remember)