見出し画像

子どもと過ごすことは、「いのち」と過ごしているということ。

おはようございます。yakoです。

10年目の今日。
あの時間・・・部屋の鏡が倒れて目を覚ましました。
その日は、職場で流行っていた嘔吐下痢で、仕事をお休みしておうちで寝ていましたから・・・よく覚えています。

私ができることってなんだろう??
と何にもできない無力感に包まれていた時・・・
「いつも通りしてくれることが救い」という言葉を聞いて、的確な支援ができないのなら、私はいつも通り仲間と集い、好きな人と笑っていよう。と思いました。

落ち着いた頃、石巻のダンプえんちょうが私のクラスの子どもと戦いにきてくれました。(当時この絵本が大好きな子どもたちでした)

その時・・・大人には、震災の時の話を聞かせくれました。
想像を超えた経験と感情と一緒にこうやって今生きてる人が、同じ国内にいること。

その中には、当時もちろん「子ども」という存在もいました。

震災直後の子どもの遊び

震災後、子どもたちがよくやっていた遊びが、地震をテーマにした遊びだというのです。驚きました。

見ていた大人は、不謹慎だからやめるように働きかけていたそうですが、心の専門家からすれば、それこそ、子どもがトラウマ解消のためにやっているというのです。

子どもにとっては、「今」を生きるということだったのだろう思うのです。

大人のように、『ジャッジ』のない子どもたち。
「震災」にも「良い」「悪い」もなく「今」なんですね。
子どもの遊びの種は、生活の中にあります。
一昔前は、電話をかけるとき・・・開くタイプの動作からスタートしてたものが今は、指で画面触る動作スタートに変わりました。
よく見ているのです。
そして、なんでも遊びに変換することで、仲間と繋がり共感したい体感しあって生きています

ありのままの子どもを見る姿勢があること、信頼する心。もっといえば、『生きている』ありがたさ。
子どもの力強さを感じました。


何がなんでも目の前の命を守り抜く姿勢

避難を待っている間、山の中で体を寄せ合い暖をとる話。
救助を待っている間、お腹が空いてなどうしようもない赤ちゃんにガムシロップを舐めさせて耐え忍んだ話。その時間を生き抜いてきた保育士さんから話を聞くと・・・「必ずおうちに返す」と決めていたんだと思います。

そういう話を聞くと、当たり前の日常は、消して当たり前ではないのだと、感じます。

私たちは、偉大な存在の前で一瞬にして当たり前が消えてしまいます
今のコロナ禍もそうですね。マスクなんてして保育してる人はほぼ理由がある人以外いなかったのに、今は子どもの前でみんなマスクをしています。(マスクについては、『「子どもに表情をたっぷりと見せて欲しい」という保育士の願い』で気持ちは書いてあります。)

普段とはかけ離れた時、「いのち」と向き合う。
そういう中で、何を大切に生きたいか??考え時間、語り合う時間が私たちには必要なんだと思うのです。

職場でも、今一度仲間で語り合える時間が少しでも取れたらと思います。
子どもと生きあっている私たちができることを・・・それは、きっと「今」も大切にされていることだと思います。

新しい朝は、希望の朝
今生きていることを大切にしていこう。
春の鳥の声がしています。嬉しいです。
いってらっしゃーい。また明日。





いつも読んでいただきありがとうございます。 応援も本当に嬉しいです。励みになります。 サポート費は、活動費に使わせていただきます!