お焼香で必ず思い出す幼きわたしの失敗談【 エッセイ 】
「 お焼香という儀式 」
伯父が他界し、何年振りかで葬儀に出席した。
親族席に座り、弔問に来てくださった方々のお顔を拝見し、会釈を繰り返すのだけれど、この時のお焼香のスタイルが人それぞれで興味深い。
中学生くらいだと、焼香が初めての子がチラホラいて、キョロキョロしながらぎこちなく事を終え、お辞儀をして去っていく。微笑ましい光景だ。
そんな様子をみて必ず思い出す。
わたしは幼稚園児の時に、お焼香でちょっとしたヘマをやらかしてしまったのだ。
親戚のオジさんの葬儀に初めて出席し、お寺の本堂で初めてのお焼香をすることになった。
その時にわたしは、何をどうしていいのかが分からなかった。
なので、後ろに並んでいる母に聞いてみた。
すると母は、「 前の人の真似すればいいんだよ 」などと的外れも甚だしい返答をした。
なんで的外れかって? それはそうでしょう。前の人たちは全員大人だし、真うしろからみたところで背中しか見えない。
もう一度ふり返り母に小声で主張する。
「 前の人、おおきいから見えないよ 」
「 じゃあお父さんの真似しなさい 」
「 わかった 」
そして順が回ってきた。
非常に不安な気持ちで、隣にいる父と並んで焼香台の前に立った。
そして、わたしはウインクした状態で手を合わせ、父の仕草を盗みみた。
粒状のお香を摘まみ、火でくすぶっている方の香炉にふりかける。
そして父は、あろうことか火が点いているお香の粒を、火の点いていない香炉の上に摘まんで入れたのだ。
そして最後に火のついていないお香を火の点いている香炉に摘まみ振りかけた。
この時に思った。
―― 亡くなった親戚のオジさんは、これから火葬場にいき文字通り火で焼かれる。その熱さを親族は分かち合うため、火傷覚悟で自らの指で火をつまんで熱を感じ、痛みを分かつのだ。
これこそ儀式。お葬式の意義なのだ !
子供心にそんなことを考え、そしてわたしは勇気を振り絞って火で赤くなった炭の粒をつまんで火の点いていない香炉にいれた。
なんなく成功した!
まるで熱くなかった!
その時わたしは仏教の神秘を感じた。
まあ、今にして思えば、汗で指先が濡れていたからだろうけど。
気を良くしたわたしは、もうひとつまみ、火のついたお香の粒をつまんでやった。
さすがに二回目は熱かったが、堪えた。
頭の中では亡くなったオジさんのことを思い「 ボク我慢したからね 」と手を合わせて念を送った。
そして一礼し、してやった顔で、席に戻り背筋を伸ばして座り、達成感のような清々しさを感じながら大人しくしていた。
皆が焼香を終えしばらくすると、ざわめきが起こった。
香炉からモクモクと煙が立ち上っている。
それもそのはず、わたしが真新しいお香の上に火種を振りかけてやったのだから。
よく見ると、父がお焼香した炉からは火の手は上がっていない。
それを見て悟った。
どうやら見間違いをしたようだ。父は火の点いたお香を摘まんでなどいなかったのだ。
香炉いっぱいに入っているお香に火が点いたのだから、ちょっとやそっとの煙では済まない。その煙は本堂に広がろうとしていた。
すると、親戚の男の人が、火が点いてしまったお香を何度かにわけて手ですくって移しかえ、ことなきを得た。
叱られちゃうと身構えたが、
「 誰かの手にひっかかって落ちちゃったのかねぇ 」というおばあさんの声でその場はおさまり、犯人捜しは行なわれなかった。
なにも知らないお坊さんのお経がもくもくと続くなか、わたしは知らん顔を決め込んだ。
エージロー
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