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他責思考の愛し方/『あいの里2』あやかん考察
人は、自分が与えたい形の愛を与える生き物だ。だから、『あいの里2』のあやかんがギタりんに伝えたこの言葉の背景にある意味はとてもわかりやすい。
だってさ、「誰かに勘違いされて傷つけられて悲しい気持ちになったら、その相手私がしばいたる」ってあやかんの言葉自体はすごく愛だなって感じたけど、その状況確実にギタりんの非しかなくない??????? #あいの里2
— エンため子 (@enter_meko) December 9, 2024
この先、ギタりんの伝え方が伝わらなくて、悲しい悔しい気持ちになってたら、私は絶対に会いに行きたい。ギタりんのことを傷つけるやつは許さへんから。
そもそもギタりんとは、女性メンバーとの共同生活をに舞い上がって度を超えたスキンシップを繰り返して精神的に追い詰めた罪により「一度あいの里を追い出される」の実刑判決をくらった男である。
だから、彼がどんなに根がまっすぐで誤解されやすくてピュアなハートの持ち主よろしくどんなに悲しがったり悔しがったりしても、伝え方を間違えて伝わらなかったなら、それはギタりんがほぼ100で悪いだろう。おそらく、誤解した側は何も悪くない。
むしろ、しばいてやりたい気持ちをグッと堪えて、なんとか穏便に話し合いで平和的解決を目指しているときに、突如現れるあやかんにしばかれる相手方可哀想すぎん?
以前、私がこのnoteを書いたのは、そんな違和感がキッカケだった。
つまり、彼女自身こそ、どんなに伝え方を間違えても、自分が悲しくて悔しい気持ちの時は、自分を肯定してくれる誰かがさっそうと現れて、自分をそんな気持ちにさせた奴を代わりにしばいてもらいたい人なのだ。
ギタりんのこんな言動が相手にとってはトゥーマッチだけど、こういうアウトプットなら受け取りやすいかもしれないとか、この部分は素敵だからむしろ忘れないでほしいなんて風に、一緒に課題に向き合ったり解決しようとしたりなんてしない。なぜなら、自分が人から口出しされるのを求めてないから。ありのままの自分を認めてくれる人しか必要ないから。
だったら、せめて黙って側にいてやれ!!なんで味方だと思ったやつの相手方を全員敵認定してさらに殴りつけなきゃなんないんだよ!
(答え→そうすることで、自分サイドが正しかった感じにできそうだから)
あやかんとギタりんの物語がどう見えるかの分かれ目は
あいの里2にまつわるネットの感想を追っていると、最終回への捉え方がまっぷたつに分かれていて驚いた。
まずは、「自分を愛することを知らなかった女性が、無償の愛を与えてくれる歳上男性との出逢いによって変わることができた友情のストーリー」だと称賛している人。
そして、その温度差に居たたまれなくなっていまだにハラハラしてしまっている私のような人。
そして、その違いは「愛着障害」に少しでも馴染みがあるかどうかのように見えた。
愛着障害とは、幼少期に本来得られるべき「保護者との健やかで安定した関係性」を獲得することができず、大人になってからも情緒や対人関係に影響を及ぼしてしまう状態のこと。
初期こそ「メンタルが心配すぎるから一刻も里を出て病院に行ってほしい」などの意見が目立ったが、最終回はまるでこれがすべてのハッピーエンドだったかのような感想が散見されて面食らってしまった。
「リアリティーショー」なんだから、番組が終わってもその人たちの人生は続いていくのに。
「問題のなさそうな普通の親子」なんていない
ただ、私自身も最終回を迎えるまでは「なんだかんだ自分に自信はありそうだし、お弁当のエピソードからもご両親との関係はそこまで悪くなかったんだろうな」と考えていた。
そして、冒頭の台詞のシーンで「親以外に無償の愛をくれる人はギタりんが初めて」という言葉を聞いてやっと点と点がつながった。
ご両親は、あやかんがトラブルを抱えていてもとりあえず全肯定して済ますタイプだったのかもしれない。
彼女は、体型に悩んでいる時に「良いから食べなさい」とお弁当を渡されるのではなく、自分の想いに耳を傾けて一緒に考えてほしかったのかもしれない。
イジメに苦しんだ時、教師やイジメっ子を攻撃することを優先するのではなく、打ち明けた自分を抱きしめてほしかったのかもしれない。
私は自分の両親に肯定してもらったことも味方になってもらったことも一度もないから、これはただの想像でしかないのだけど。
じゃないと、ギタりんの性欲を「無償の愛」だと思い込んだり、「敵味方」なんて概念をわざわざ伝えたり、第三者の立場から暴力的に解決しようとしたりなんて、しないよなあ。
愛着に傷がある人間の生き方
言葉だけ聞くと大層なことに思えるかもしれないけど、愛着障害とは病名のことではない。
人それぞれ「愛着スタイル」というものがあって、本人にも周りにとっても心地よい対人関係が築ける状態は「安定型」に分類される。
だから、何かがあった途端に目の前から姿を消してしまう人も、物凄い勢いで誰かに依存してしまう人も、他者との「距離の取り方」において極端な行動をとってしまう面では同じ。愛着に「障害」があると言えるのだ。
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人のフリ見て、我がフリ直そう。
私も私で、自分のふるまいや物事の受け取り方にいつまでも振り回されてしまうことが今もある。
だからこそ、こうやって画面越しに疑似的な人間関係を見つめ直して、書くことで整理する時間の中に小さな自信を育てている。