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「目に見えないもの」に、興味がある ¦文字や絵にして「目に見える」ものへ

私は、「目に見えないもの」に興味がある。
例えば、自分や他人の感情、行動の動機、
制作物の意図、経験、育った環境、過去、
思想、本能、深層心理 etc...

これら「目に見えないもの」を見ようとする行為は「目に見えるもの」を見るよりも、
ずっと面白いと思っている。

「目に見える」ものの、原因が
「目に見えないもの」の中にあるから、
そこに答えを求めているのかもしれない。

「知らないことを知りたい」と思う好奇心も、
働いていると思う。
コンセプトというデザインの軸や
他者のニーズを把握する手段としても、
有効であると思う。

あるいは、「目に見えない」からと言って
無自覚に他人を傷つけてしまう行為が嫌いであるから、見ようとしているのかもしれない。
そんなことが起こってしまったら自分を許せなくなるから、「目に見えないもの」を必死に
見ようとして、他者を理解しようとしているのかもしれない。
防衛本能でもあるのだと思う。


最近は、常識や価値観の固定化、暗黙の了解
について関心がある。
その正体は、学校や親、大人に教えてもらったルールでもあるかもしれないが、
自分が普段無意識に読んでいる空気や、
固定概念に疑問を持ちたいと思った。

例えば「愛の美しさ」についてである。
愛なんて1つではないのに、ハッピーエンドの美しいおとぎ話やメディアによって、
これが求める「愛」の形だ、こうなるのが
「美しい」という固定概念が自分の中に
あるということに、最近気づいたのだ。
カンザキイオリの著書である ''自由に捕われる''を読んだのだが、そこに描かれている「愛」を、歪んでいると私は感じた。
確かに愛であるというのは認識できるのだが、
あまりの感情の不安定さと、刺激の強さに
歪んでいる通ったのだ。
一方で私は考えた。これを読んで「歪んでいる」と感じる、私の価値観の方が「歪んでいる」のではないかと。
愛とは、人間とは本来、こういう形をしているのではないかと考えた。
カンザキイオリの書く、飾らず正直な人間らしい叫びと感情こそが、本物なのではないかと
考えたのだ。

しかしそれもまた、ひとつの「愛」の形でしかなくて、よくあるハッピーエンドも「愛」なのかもしれない。
否定はしないが、これが「愛」だという
無意識の固定概念を作っていた、
私自身の常識をぶち壊したいのだ。

これが正しいとか、これが美しいとか、
これを人に与えれば満足するだろうとか、
そういう縛られた中にある表現は、窮屈だ。
見事に踊らされる人間の中に、
私もまた存在するのかもしれないが、
どうにかして、私は自由でありたいと願う。

もっと芯を食った、熱を帯びた、
確実に人に与える何かを、
私は人間の中に、探している。
他者の表現を喰らい、自分自身を疑い、
疑問を投げかけ、考え続ける。
どうしたら、満足できるのか。
満足したいのなら、模索し続け
考え続けなければならない。
そこに、答えがあると信じているから。

大学生活最後の卒業制作が、
来週から始まる。
焦りを感じながら、今日も思考する。

自分の中にある「目に見えないもの」を、
探し求めて、思考を文字にして、
「目に見える」状態にして、客観視する。
そうして、視点をクルクル変えながら
思考を重ねていく。
そんな時間を、私は愛している。
「目に見えないもの」の、私は虜である。

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