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光明

こんにちは、領です。

私がブログを書く時間は、疲れて眠い時間です。
後から書いたものを読み直すと「ここは伝わりにくいな」「ここは私が前提としていることがはしょられてるな」「ここは注意書きが必要だな」と感じることが多いです。基礎的な文章構成力が足りてないのが一番の原因です。

それは置いといて、最近考えたことを頑張って書きます。

「光明を得た」という言葉についてです。
Wikipediaに「光明を得た」といえば比喩的に覚ったことを表わすこともある。
このように書かれています。

「光明を得た」は、比喩ではなく、悟りそのものです。
「照見五蘊皆空」を領解するのは「光明を得た」からです。
五蘊が滅して光になる刹那が悟りです。その境地で如実に知るのが「観」です。
「観」とは、存在を「有」と認める作用です。その作用を人は「真の自己」と名づけています。「観」は一切の現象に対して唯一として存在する構造を持ちます。
人が言うところの「真の自己」は唯一として存在することから、この世の全ての人は同一人物という構造をとります。(唯一として存在し、かつ時空に遍在する構造なので、私たちは「真の自己」で満たされた時空に存在しています。)

ニュースで酷い虐めを見聞きしたら、その当事者として「自分」は存在します。
虐めが楽しいという状態にある人は、ぞっとして欲しいです。ニュースを見ている人にももっと深くぞっとして欲しいです。私もぞっとします。

被害者も加害者も「今」自分です。

注意書き:『「観」とは、存在を「有」と認める作用です。』この文章の「作用」とは、人がイメージするような「力」ではなくて、「作用」「力」と表現すると理解がしやすい関係性ということです。そういう意味では、自然界の4つの力は存在しないということです。

「観」「真の自己」が、この世を創造しているのではなく、現象に対して不可分に「観」(「真の自己」)が在るだけです。

「光明を得た」という地点は、時間の経過や空間の長さという概念の存在し得ない地点です。一切の可能性を含んだ地点です。エネルギー密度無限の地点です。相反する関係性の枠が解消され原初の光の状態となる境地です。相反する関係性の枠は重なり合うと潜在し無効になります。「関係性」は独立性があり潜在しても保存されています。
「光明を得た」とは、原初の宇宙、全知の量子、自然界の4つの力が統一された地点のことです。

「観」と「真の自己」の関係について思うこと。
まず「自己」と「真の自己」の関係で考えると、やっぱり名前が気になります。


「自己」に似せて「真の自己」と名づける構造です。
「真の自己」が「自己」に似ている関係性は違和感があります。
「自己」という構造が「真の自己」の構造に似ているという考えが好きです。


「自己」:五蘊を統一された個人として認識する。(「認識する」という関係性であって、認識そのものではありません。「認識する」を認識するのは「真の自己」が必要です。)
「真の自己」:統一した構造に不可分に存在し「有」と認識する構造。


何が言いたいかというと、「真の自己」という名付けは、人間中心的ということです。
「真の自己」と呼ぶより「観」と呼ぶ方が好きです。

全知の量子「観」から宇宙が始まり銀河の構造ができて、生命が存在を現わし人間にまで至り、その人間の「観る」が高次化し「光明」に至り、それは、全知の量子「観」だけの状態に至ることであり、「円相」が完成します。

注意書き:全知の量子が「観」なのではなくて、「観」は無次元の点の物理的性質であることをふまえて考えると、全知として振る舞う点(全てに分岐する可能性を含んだ点)として考えられ、全知が本質なのではなくて無次元の点が本質ということです。本質とは実在ではなく存在の根底という意味です。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

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