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『ぬりえ』
1970年代前半の話‥
昔、母方の実家は大阪市東淀川区三津屋にあった。
「いやいや三津屋は淀川区だよ」という声が聞こえてきそうだが、1974年(昭和49年)7月22日に淀川区が誕生するまで此処は東淀川区だった。
今でこそ中層マンションが密集して遠望が効かなくなったが、あの頃は大阪ガスのガスホルダ(別名ガスタンク)がまだ灰色の円筒形で、この辺りのどこからでもその異様を見ることが出来た。
(追記)当時の円筒形のガスホルダは高さ80mほどあり、ちょっとした高層ビルくらいの高さだった。
三津屋のは「大阪ガス神崎川供給所」という施設で、円筒形のは石炭からガスを作っていた時代のもの。液化天然ガス(LNG)導入以降は現在の球形タイプに入れ替わっている。
※ご参考 https://ameblo.jp/tetsudotabi/entry-11533294378.html
道路脇には水路と云うより「ドブ川」が縦横に張り付いており、時折ポコポコとメタンを発生させていた。
蛍光グリーンの怪しげな藻やアカムシの群集などが蠢く様子が東宝映画『ゴジラ対ヘドラ』のリアリティを一層掻き立てる‥そんな恵まれた環境だった。
実は今もあるのだが『ぼんちあられ本社敷地』の西側。三津屋中通りの角に地上3階鉄筋コンクリート造の昭和レトロなマンションがある。母方の実家はここにあった。
母の実家は、元は東北・仙台に代々居住していた一族で、聞けば伊達藩に仕える郷士か何かだった‥。
祖父は戦前にタクシー会社を興し、陸軍の高級将校や地元名士を運んで結構な羽振りだったとのこと。※のちに黄綬褒章を受章している。
1930年(昭和5年)生まれの亡き母の口癖は「戦争中でも毎日アイスクリームを食べていた」だった。
何がきっかけかは知らないがやがて没落したようで、一家は長男(母の弟、つまり私の叔父)を頼って大阪に転居した。
叔父は仙台電波高校(現在の高専)を卒業後、大洋漁業に就職して捕鯨母船「日新丸?」の通信士であったが、後に超有名整理屋(ホテルニュージャパンの横井英樹と組んでいろいろやらかす)の妹と恋仲になり結婚。その縁で義兄の会社に転職。絵に描いたような『ナニワ金融道』な人生を歩んでいた。
夏休みになる度に我が家はこの大阪の"実家"に"帰省"していた。
"帰省"と行っても誰の故郷でもなく、ただゴミゴミとした大阪のスモッグを浴びにくるようなものなので私は毎回気が乗らないのだが《飛行機または寝台特急に乗れる》というその一点のみソソられるイベントのため無表情でこの旅行に巻き込まれるのである。
私は大阪が大キライだった。
今はそれほどではないが‥当時、テレビをつければ関西弁と関西コテコテ笑いの洪水。
今ではシャッター通り(それでも頑張っている方ではあるが)の三津屋商店街も活気に溢れていて、「は~い50万円!」と笑いながら釣銭50円玉を手渡すおばちゃんなど、総じて「押しの強さ」に威圧され、私は大阪の環境に同化できずにいた。
しかしここは子どもである。何かにつけ見事な順応性を発揮するのである。
ちなみに叔父の家には祖父・祖母に加え、同じ年と2つ下の従兄弟が居て、すぐに臨時編成の悪ガキ隊が行動を開始するのであった。
叔父一家が住む三津屋のマンションには風呂が無かった。
屋上にポツンと一台だけある洗濯機も共同で、脱水機は付いておらず「手回しローラー絞り器」が付いていて、わざと手を挟んで「いててて」と笑わせるバカが私の役目だった。
三津屋温泉の記憶
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風呂は、三津屋中通りの『三津屋温泉』である。
温泉と云っても普通の銭湯。
ただ他所と違っていたのは、銭湯によくある富士山の壁の絵などはなく、全体的にタイル張りで天井もカマボコ型の弧を描いたモダンな作りだったことだ。
脱衣場から入って右側に洗い場が8席、真ん中の島に7席、女湯との仕切壁に4席あって、中央部に深めの湯船、その奥が寝湯、さらに奥が電気風呂となっていた。
実は昨日3年ぶりに訪れてみた。
あの頃とほぼ変わらない内装そして雰囲気‥。
番台の横にある冷蔵庫の中身がやや寂しげに見えたが、あの頃を思い出すには十分なタイムカプセルぶりである。
深い湯船
あのころ‥
10歳の私は深い湯船が怖かった。
背伸びしてようやく喫水線が顎の下。
ぴょんぴょんと飛びながら従兄弟らと湯に浸かる。
洗い場の壁。
今は綺麗さっぱり取り払われているが、当時は「病院」「質屋」などの広告が貼り付けられていた。
かつてその中に「種田眼鏡店」というのがあった。
私の本名と同じなので「ほーっ親戚かな」なんて思いながら眺めていたものである。
若い衆
20歳くらいだろうか。任侠に入門したてと思しき青年が身体を洗ってる。
私はぴょんぴょんと飛びながら、彼の背中を見つめていた。
作成途中の彫り物だった。それは弁財天だったか。
当時彫り物を入れた者が銭湯に入ることなど珍しいことではなかった。
だがこの青年の背中には「色」が無かった。
まだ輪郭線が入っているだけ。だから作成途中だと思ったのだ。
いまでもそうだが、私はすぐにキャッチコピーが浮かんでしまう。
時にそれは無慈悲な言葉遊びとなり、一歩間違うと他人の心を激しく傷つけてしまうので注意が必要だが(場合によっては言葉の武器となる‥野党ベンチャーとかね)、さてさてこの頃の私にそんなデリカシーは欠片もない。
「ぬりえ」
湯船でぴょんぴょん飛びながら「おい、あいつ、あいつ、ぬりえ!ぬりえ!」‥従兄弟に耳打ちした。
「ほんまや、ぬりえや!」
ほかのガキ共も一斉に共振しだす。
「ぬりえ!ぬりえ!」
最初何を言われているのか理解していなかった青年ヤクザも遂に自分がガキ共から小馬鹿にされていることを知る。
だが相手が悪過ぎた。
なにせ『クソガキ』なのである。
本気で怒れば《大人げない》と笑われ、漢が廃るかもしれない。
「うっさい!だまっとれ!」
そう一喝するのが彼に出来た最大の反撃だった。
銭湯を出て、角のマンションに戻る。
2階の窓から通りを見下ろしながらサイダーか何かを飲んでいた。
すると『ぬりえ』が洗面器を小脇に抱えて歩いてくる。
「おい、ぬりえが来たぞw」
2階の窓からクソガキ共の無慈悲な合唱が始まった。
「ぬりえ!ぬりえ!ぬりえ!‥」
照れと怒りとが混合された特殊な感情が恐らく青年の心には生まれていたと思う。
「お前ら、後で覚えとれよ!」
怒気を孕んだ捨てセリフを吐いて彼は角を曲がって何処かに消えていった。
恐らく何処かの飲み屋で酒などを煽り、気持ちを沈静化されるつもりだったのだろう、だがそれは真逆の方向に牙を向く結果となった。
小一時間して彼はこのマンションに1人で殴り込んで来たのだった。
玄関で迎え撃ったのは叔父とうちの親父。
叔父は柔道の猛者。親父は空手五段である。
玄関先でドカン、ボカンという鈍い音が鳴り響く。
親父の怒声も強烈だった。
半時ほどして何事もなく晩飯が始まった。
「あんなチンピラ相手にしちゃいかんよ」と諭されたが、
どう考えてもイチバンの被害者は『ぬりえ』の方だった。
さすがに悪戯が過ぎたなーと反省して翌日を迎えた。
ごめんなさい。
翌日
翌日も三津屋温泉である。
相変わらず湯船でぴょんぴょん飛んでいる我々悪ガキである。
そこに『ぬりえ』が入ってきた。
生活リズムがシンクロしていたのかもしれない。
「やばっ!」
『ぬりえ』は「じゃりン子チエ」のテツがボコボコにされた顔面の様相だった。
目があった。
『ぬりえ』が突進してきた。
「やばい!殺される!我々はこの湯船で僅か10歳の一生を終えるのだ」
刹那、覚悟した。
ボコボコになった顔をクシャクシャにして『ぬりえ』は笑っていた。
「ぼっちゃーん、かなんなー。お父さんたちめっちゃ強いやん。もうにいちゃんのことイジメんとってな。頼むわー。お父さんたちにもよろしゅう云うとってな!」
パワーバランス、組織的力学、任侠?‥
何かは分からないが『ぬりえ』は極めて大人な対応をした。
しばらく我々悪ガキ隊は「ポカーン」としてしまった。
時は過ぎ‥
あれから半世紀。
『ぬりえ』が生きていたら70歳前後か。
ぬりえは完成したのだろうか。
風の便りで「色を入れていない墨一色の彫り物を背中に入れた元極道がいる」なんて話を耳にすると、もしやあのときの『ぬりえ』‥なんて思ってしまうのである。
昨日、三津屋温泉の深めの浴槽(いまの私では喫水線は腰の高さ)で喫水線が顎のラインにくるまで沈んでみた。
壁側の洗い場、右から2番めの席に『ぬりえ』の姿が見えた気がした。
『ぬりえ』のその後の物語を書いてみたくなった。書いてみるか‥。
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