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「令和の城」病院と医師の行方

 城巡りはそんなにはしていないが、それでも機会があれば城に行くことがある。

 かつて住んでいた赤穂には赤穂城があった。5万石にしては巨大な石垣。天守閣は建てられなかったが、それでも城内を歩いて江戸の昔に思いを巡らせたものだ。

 そんな赤穂城のすぐそばにあるのが赤穂市民病院だ。そう、いま悪い意味で話題の病院。私のかつての職場だ。

 医師や医療関係者にとっての城が病院だ。いわば令和の城とでもいうべきか。

 医療の「サムライ」?である医師にとっては、城に登城し、医療行為をし、禄を喰む。大きな城、有名な城に勤めるのが医師のあこがれであり、大名(大学病院の教授)にはなれなくても、支城(関連病院)の城代(院長)になりたい…。そんな出世欲が医師を動かしたりする。

 城勤めを辞め、砦を自ら築くのが開業医といったところか。なんか違うか…。まあ、医療を戦国や江戸時代に当てはめるのには無理があるわけだが。

 私のようなフリーランスは、いわば浪人のようなものであり、特定の城主に支えることなく、「傭兵」として働いているようなものか。

 大名(大学病院の教授)にとっての力の源は、支城、出城が、つまり関連病院がどれだけあるかだ。

 旧帝大はいわば国持大名みたいなもので、県などの地域一体かそれを超える領域に支城や砦を持ち、支えるサムライを領国に派遣している。サムライたる医師たちはそれで職場を得、飯を食っている。

 一方、歴史のない大学は、出城が少ない。新しくできた城などにサムライを派遣し、少しずつその版図を広げていく。

 国境では城を巡って争いが起こる。

 策謀をめぐらせ、他国から城を奪うこともあるし、国力低下で辺境の城を放棄し、そこに別の大名が入り込むこともある。

 近年、数こそ力の支城支配に変化が起きている。その理由は…。


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