無の海に浮かぶボート
不健全な感情や関係。それは居心地の良さと引き換えに戻ってこれないという取引に近い。
その取引にサインをした私は、少しだけ、無の海に浮かぶボートにいた。
セ・ラヴィを甘んじる
自分だけの人生、一度きりの人生。「自分の思うように、やりたいように生きてみよう」と誰しもが思う。そして、偶然と思われる様々なアクシデントを経験しながら己の人生を歩んでいると思っている。
最近すごく思うのが、やっぱり「やってはいけないこと」は本当にやってはいけないことだということ。
嘘。まともじゃない恋愛。怠惰な生活。
こういうのは本当にやってはいけないことだと、小さい頃からずっと絵本や小説、ドラマや映画で叩き込まれているはずなのに。なぜだか「自分なら大丈夫」「やってみなきゃ分からない」「まだいける」盲目な自信を信じてしまう。
そこに片足を突っ込んでいる間は、素知らぬふりをしていれば、誰も見ていない、誰も怒らない。自分だけがその沼のぬかるみの気持ち悪さを感じている。けど、感じていないフリをする。
誰もがそういうものに触れてしまったとき、墓まで持って行こうとしたり、キャパオーバーして無実の誰かと背徳感を共有しようとしたりする。
でも、黙っていても、暴露しても、平気なフリをしても、ぬかるみは消えない。ぬかるみは清らかな流水を注がない限り残り続ける。
誰にも見つからないボートの上
そういう薄暗いものは時間と共に、膿として滲み出てくる。気持ちがどうしても晴れない。いつも不安。漠然とした全然幸せじゃない感。
それなのに「このままでいたい」と思う時がある。もう誰にも見られないで、明るみにもならず、この薄暗くぬかるんでて、誰も歓迎しない世界に潜んでいたい。もはや、居心地さえ良くなってくる。
終わりがくるなら、必ず「正しさ」という眩しすぎる世界に負けてしまうのなら、自分が間違いを犯していることにさえ気付けない世界に行きたい。そんな感じ。
「無」からイメージできるものは、怖いけど居心地が良さそうで惹かれる。
宇宙。海に沈んだ船のシート。森で人知れず咲く花。砂漠の砂の中。空に消えていく風船。飛行機から見える、幸せそうな雲の絨毯。誰も住んでいない家に流れる空気。
正しさを叩きつけられる答え合わせが怖くなる時。背徳感に襲われた時。そういう類のものに憧れを持つ。
居心地の良さと引き換えに戻ってこれないという取引。
流れのない無の海に、オールを持たずに、ただ浮かび続けるボート。
まとものチューニング
でも、やっぱり幸せは一瞬で、普段は全然幸せじゃなかった。本当の幸せじゃないことには薄々気づいてた。
「自分なら大丈夫」も「まだいける」も全部嘘だった。やっぱりいけないことはいけない。身を持ってしか学べない人間であることをちゃんと恥じる時間が来た。
世界には正しさも間違いもないと思っていたけど、心に問い掛けた時、その答えは自ずと分かってしまう。違和感は人を蝕んでいく。
正しさを受け入れる時、あの居心地の良さとはお別れする時、名残惜しさと共に「いけないことをしてた」という事実に向き合う席に座らされる。
「まとも」を手に入れるには、そういういけない居心地の良さに惹かれてしまう恐れのある自分を理解して、日々気を付けて生きていかなければいけない。
太るのは簡単なのに痩せるのは難しいことと似ている。
まとものチューニングを日々怠らず生きること。難易度の高い行いをする者だけが、疑うことなく本当の幸せを受け入れられるのだなぁと思う。