評価についての持論
ひょっこり現れて、知らぬ間にまた姿を消す、そのようなミステリアスな女になりたいと思う夜もある人です。こんにちは。ミステリアスな女の定義、いや、各々が思う、そして私が思うミステリアスな女とは、について語り明かしたいです。いつか。
さて、タイトルの「評価」についてですが、皆さんは今日も「評価」という得体の知れない概念に左右されておりますでしょうか?「左右されてるよ〜」という方は、その場で誰にも気づかれないように「ハイ」と呟いてみて下さい。
評価について書きたいな、と思ったきっかけはもちろんございます。
先日、某芥川賞作品を読んだ後に、さらにその選評も読んでいたのですが、各選評理由のバラつき具合に驚きを隠せないものがありました。普段から「〇〇賞を受賞したから読む」という選書をしない私、偶然読んでいた作品の読了後にそれが受賞作品であるということを知り、選評を読む流れになったのですが。まぁ、選評のバラつきの凄まじいこと。面白いと評価している方もいれば、つまらないと酷評する方も。思わず笑ってしまいました。
評価について考える時、そこには定量的・定性的な評価の二者が現れる。今回はその後者について書きたく、久しく触っていなかったiPadのキーボードを叩いているわけです。
先程の某芥川賞受賞作品については、個人的にはとても好みの作品で、「やばい!面白すぎる!!(ありきたりなことしか言えない程、面白かった)」と興奮しました。しかし、私と同じように(大いに語弊あり)こんな作家がいるなんて…と高く評価をする選評者もいる一方で、そうでない方もいる。受賞するかどうかは、全員一致の結果ではない。誰もが耳にし、ニュースでも取り上げられる程の賞でさえ。
ちなみに、某芥川賞受賞作品とはこちらです。
安部公房『壁』より第一部『S・カルマの犯罪』
もちろん万人が同意見で受賞作を決められるに越したことはないと思いますが、我が国は民主制度を持つ民主国家である以上、そのようなユートピアは公に晒されている環境下では存在し得ないということが、はっきりと明白に私の目の前に概念として現れるばかりでした。思えば、毎年恒例の紅白歌合戦でさえ、最後の最後に投票によって勝った負けたを決める茶番を含む民主政治。あなたの声が一票になり、あなたの声とは反対の声も一票になる。
では、賞に選ばれなかった作品は劣っているのか。紅白歌合戦で負けたどちらか一色の組は出来が悪かったのか。
いや、違う。それは、単に好みの問題なのでは。
そう考えると「評価はなんて脆いものなんだ」と思えて他ならなくなり、またその脆さというのは、出版業界や大晦日の歌番組に限った話ではなく、定量的な要素を含むどの世界でも同義ではないでしょうか。
私たちは不意に自身に向けられた酷評を受ける時や、また自身が愛して止まない作品や人がそれを受ける時、咄嗟に護身に走ってしまう。その護身術は様々であるが、自尊心を傷付けまいとする無意識からくるものであることが多い。それはどこか大人げのない行動に思える場合もあるが、決してそうではない気がするのです。
その評価を下した人が全てではない。世界の人口を考えてみると、極論全てがバカバカしくなりますよね。目に見えている言葉、人、世界だけではない、という真実は忘れないでおきたいです。現に私は、私自身や、私の作品、また、私が好む作品に対して多大なる愛を持っている一人であり、私がそれらの対象に対して抱く愛が続く限り、一票は私が持っており、すでに評価の脆さを言わずもがな語っていますので。どのような酷評も愛で撃ち返すというポーズの取り方を忘れないでおこうと心に決めました。
(とある憎しみと混ぜ合わせて書いております。冷静な気持ちだけを持つことが人生ではないでしょう。)
以上、評価の脆さについての持論でした。