【前半】長野県松本市滞在記2024/8/12~8/18 ルーツを辿る。
全国小劇場ネットワークのシアターホームステイという企画で、長野に滞在しました。その時の記録です。
【8月12日(月)】移動日 新宿駅〜松本駅
到着後お世話になる「上土劇場」永高さんとのご挨拶
前日まで東京都調布市にあるせんがわ劇場にて講習を受けていたため、東京から長野へ移動した。新宿駅から特急あずさに乗って松本駅へ。乗車時間は約2時間30分。
東京を抜けて山梨に入ると街の中にも田畑が広がっていて、三角の瓦屋根は北海道ではあまり見かけないため移動もすでに楽しい。目の前に広がる風景に懐かしさを感じるのは、テレビやネットなどのメディアを通じて触れてきた景色だから、だけではない。
今回僕が「シアターホームステイ」で長野を選んだのには理由がある。僕は、4歳から9歳の終わりまで計5年間を長野県松本市で過ごした。物心がつき、友人ができて、自分が住んでいる地域とのつながりを感じ始めていたあの頃は、朧げながらとても大切な時間だった。大人になった今、改めて幼少期を過ごした街の風景を見て「自分は何を感じるのか」そして、あの頃の自分では感じとることのできなかった「長野の地域性や文化」を考え記憶をアップデートさせたい。5年間で体験してきた出来事に、幼いながら揺れ動いていた気持ちをこの旅で確かめてみようと思った。
新宿を出発して2時間30分。松本駅に到着した。東京は湿度が高く陽が落ちてもジメッとした空気が体にまつわりついてきたが、長野は幾分過ごしやすそうだ。 ホテルのチェックインを済ませて、お世話になる上土劇場へ。松本駅から約20分の道のりを素敵な商店街や通りを抜け、少し早足で向かう。上土劇場周辺の文化を支えてきた「永高」さんと早速お会いすることができた。
今後の予定を共有し、疑問に思っていたあれこれを質問してみた。長野は蕎麦どころとして有名なのだが、永高さん曰く、松本城歴代城主がそば好きだったこと・盆地で水がきれいなことからそば栽培がしやすかったこと・江戸時代、蕎麦切り発祥の地が松本から南へ少しいったところにある塩尻にあることが大きな要因らしい。
想えば小さい頃、自分もよくそばを食べていた。そして、長野から越した後の蕎麦に何か物足りなさを感じていた。そのことを永高さんにお話しすると「ぜひたくさん食べてください。長野の蕎麦屋にハズレはありません。」という言葉に続けて「新しいお店ができても、信州の人は味にうるさいからすぐ潰れるんです。」と信憑性のあることをおっしゃってくれた。
【8月13日(火)】2日目。小学校、幼稚園へ行ってみる。
幼少期のこと。長野で触れた歴史のこと。
長野2日目はレンタカーを借りて通っていた小学校と幼稚園へ。
記憶の中では、丸太やタイヤの遊具でたくさん遊んでいた。今でもあるのだろうか、と楽しみに松本駅から20分ほど、南へドライブ。
小学校に着く直前、見覚えのある景色が見えてきた。東京を出発し、山梨に入った頃、電車に揺られながらなんとなく感じていたノスタルジーな気持ちが、少しずつ形となって現れる。橋を渡って、セブンイレブンがあり、右手に5年間過ごしたお家があった。周りの景色はほとんど覚えていなかった(というか幼少期の行動範囲では見られていなかった)のに、それでもそこかしこに見覚えのあるポイントがある。あゆみちゃんという幼馴染とよく遊んだ駐車場。ここで自転車の補助輪を外した。家の目の前にはよくキャッチボールをした保育園。夕日が異様に赤くて、大きかった。隣に住むたくやくんの一軒家は今でも洗濯物が大量に干されていて、大家族は健在だった。それでも、目の前にあったはずのクヌギの木は切られていて、もうあのクワガタやカブトムシは採ることができない。
ふと、ぼーっと眺めては、少し、動けない自分がいた。初めての感覚だった。
通学路を抜けて、小学校へ行ってみることに。
うちの近くの神社には戦死者を祀る碑があり、入っちゃいけないと教えられた。よく休憩に使っていた知らない人の家の軒先。キノコを蹴り飛ばして遊んでいた森を通ると小学校がある。思ったより近い。
当時は1000人を超える生徒が通っていて、本州の中でも敷地面積が広いことで有名だった。自分も成長しているので普通なら「こんなに狭かったのか」と思うところだろうが、今でも普通に広い。なんなら歩くのがつらい。
正門を抜け、校庭を通ると校舎がある。作りは古い感じもしたが、記憶の中とさほど変わらない。小学校に通うのは楽しかった。野球を始めたのもこの頃で、一気に友人が増えた。名前を思い出せるのは数人だが、初めて人を好きになったり、嫌いになったり、だから、そういう記憶と紐づいている景色を、辿るように歩いてみた。
校舎の横にはプールがあって、夏休みということもあり塩素の匂いがする。裏の畑にはじゃがいもが植えてあって、今でも種芋が転がっていた。畑の横にはお地蔵様と地域の方のお墓があって、なぜか入っちゃダメと言われなかった。遊具はほとんど変わらなかったが、よく遊んでいた丸太は撤去されていた。植えてある花々や、大木は今でも残っていて、応援団が登る鉄製の壇上が、誰もいない校庭にぽつんとたたずんでいた。
長野は晴天率日本一の土地だ。この日もカラッと晴れた天気。ただ北海道とは決定的に気温が違うので、汗がダラダラだった。見回すと日本アルプスの山々が「嘘だろ」という解像度で見える。高度も高く、空気が澄んでいるので遠くまで見えてしまう。この景色が当たり前で、好きだった。引っ越さなければこの当たり前にも気がつかなかっただろうが、長野を去った後は、この素晴らしい景色もぼんやりしていた。
小学校から10分くらい。幼稚園がある。過ごしていた年齢を逆行する形になったからか、ここら辺はほとんど覚えていない。なんとなく図書館があったのは覚えていたし、藤の花が咲いていたのは覚えているのだが…、
僕の幼稚園時代は大変手のかかる子供だったようで、今でも担任の先生とは年賀状のやりとりをしている。夏になるとプールに入るのだが、水が大っ嫌いだったため、僕専用の小さなビニールプールが用意され、そこで永遠に遊んでいた。先生はつきっきりだった。迷惑な幼稚園児だ。
夏の預かり保育でたまたま職員さんがいて、中を見学させてもらうことになった。この幼稚園には新幹線の形をしたバスがある。驚くことに当時のバスが園庭に残っていた。今も稼働しているらしく、よく遊んでくれていた運転手のおじさんを思い出す。僕が卒園してすぐ、がんになったことを聞いていたので、小学生ながら心配していた。その頃は新幹線が大好きで、送り迎えができる家庭だったにも関わらず、わがままを言って帰りだけ乗せてもらっていたらしい。全く迷惑な幼稚園児だ。
校庭を見回すと、自分の行動範囲の狭さに驚いた。こんなところ知らない、こんな遊具覚えがない、というものばかりで、教室にいるか近くの蛇口で泥団子を作っていたかの2択だった。卒園し、それなりに友達ができて、人とコミュニケーションが取れていたのは、優しい先生方のおかげだろう。
今働いている先生からお話を聞く。
バスの運転手さんは昨年ガンサバイバルから復帰されて、今も現職だと言う。当時別の担任だった先生が園長先生になり、僕と同じ小学校卒業で同い年の新人先生が2人いるらしい。
「また、節目節目で遊びに来ます」と伝えると、むすびに、「変わらないものもたくさんあって、よかったです。」と言葉をいただいた。
お昼はそば。念願のそば。味は伝えられない。バカクソ美味かったので信州に行けばいいと思う。お盆は天ぷらを揚げるらしい。へぇ。うま。
長野はワサビの名産地でもある。午後は安曇野にある大王わさび農場へ訪れた。
ワサビは温度管理が難しい植物で、日光が苦手なこともあり、この時期は黒い不織布が川一面を覆っていた。その景色も壮大で、これはこれで乙だ。近くには、ワサビ田の成り立ちや伝説、それを祀る神社があった。
北海道は土地のお話というと「アイヌ」になる。他地域に赴き、その土地の出来事を目撃すると自然と想像が膨らむ。北海道は開拓されてからの歴史が浅いこともあり、神社や寺、語り継がれてきた民話は少ない印象だった。地域の歴史に触れるのは素直に楽しい。
今も、僕は目に見える範囲で、自分の住んでいる地域を理解し、語っている。まだまだ知らないことはあるはずだし、北海道で創作する以上知っておかないといけないな。と、帰ってからの創作に気持ちが動いた。札幌に帰ったら、いろんな人に話を聞いて、行ったことの無い土地で、出来事に出会えたら、と思った。
【8月14日(水)】 3日目。観光Day。
上高地。岡谷太鼓まつり(中止)。長野の夏、
この日は長野に来て、観光しないのも…、ということで国の文化遺産「上高地」へ。大正池、河童橋、明治池を見る。時代の名前がついているのは、その年代にさまざま出来事があったからなのだそうだ。
自然保護の観点から、自家用車の入場規制があるにもかかわらず、観光客や登山客が多くいた。あいにくの天気で、肝心の山々は見えなかったが、知床とは違う自然の形は新鮮だった。また来ようと思う。
その足で、岡谷へ。この日は岡谷太鼓まつりという比較的大きなお祭りが開催予定だったが、ゲリラ豪雨で中止に。ゲリラ豪雨は北海道では起きにくいので、これはこれでまた楽しい。コロナで開催が難しかった大規模なお祭りも各地で再開していて、中高生が背伸びをしている姿が印象的だった。商店街や商工会議所、町の商店が一丸となって開催している雰囲気は、規模感にあっていて、雰囲気だけでも触れられてよかった。
前半3日間はルーツを辿った
覚えているようで、覚えていない。そういう記憶が結構あった。忘れていたけど、思い出せた。という景色がたくさんあって、自分のこれまでの作品を見返すと、そこかしこにそういう景色から得た感情が利用されていたことに気がつく。あの赤い夕日は「おきて」という作品のラストシーンの夕日だったのかもしれないし、入っちゃいけない場所への興味は「おもり」で登場するあっち側のことだったかもしれない。人から話を聞くこと、物語を想像すること、演劇がなければ気がつかなかった日常のあれこれを、言葉にして、残しておく。作品を作っていて、ああ、いいなぁ、と思う瞬間には、覚えているようで、覚えていない過去の出来事が散りばめられているのかもと思った。
後半(長野の演劇へ)続く。