ペリリュー島の戦いに学ぶ
こんにちは!!
結婚相談所ラ・マリージュ縁結び(全国仲人連合会広島)代表の反田でございます。
私は結婚相談業を37年間経営をさせていただいております。
これまでにたくさんの方々とのご縁があり、皆様に健全な家庭を築いて頂き、また、幸せな日々を送って頂いていることにを大変嬉しく思います!!
さて、先日は8月15日終戦記念日を迎え、私の地元広島でも戦没者の記念式典なども開催されました。
やはり、被爆地広島に在住の私としては、戦後76年経った今でも決して忘れてはいけないおざましい戦争、2度と繰り返してはいけな出来事だからこそ、後世に伝えていくべきことだと思っております!!
そこで本日は、8月のこの時期にちなみ、ペリリュー島での戦いで活躍したある日本人、中川州男という人物について書かせていただきます!!
皆さんはペリリュー島、ペリリューの戦いをご存じでしょうか?
ペリリュー島とは、パラオ諸島にある島で、先の大戦で激戦地となったこともあり、その名をご存知の方も多いことでしょう!!
"ペリリューの戦い"とは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から11月27日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊とアメリカ軍の陸上戦闘です。
その戦闘で日本軍の指揮を取っていたのが中川州男(以下中川大佐)という人物です。
歩兵第2連隊長としてペリリュー島守備隊(約1万2千名)を指揮し、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵隊(約4万9千名)を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ海兵隊に多大な損害を与えた事で知られています。
ペリリュー島には1943年6月末の段階で民間人1,060名(日本人160名、朝鮮人1名、現地住民899名)が平地の多い南部を中心に島民が居住していました。
★日本兵と島民が意気投合★
島民たちはすっかりと日本兵と意気投合し、戦闘が間近に迫る中、中川大佐は島民の代表から「一緒に戦わせて欲しい」との申し出を受けました。
★見せかけの友情だったのか…★
申し出を受けた中川大佐は島民に対し、「貴様らと一緒にわれわれ帝国陸軍が戦えると思うか!」と拒否をし、実につれないものでした。
島民は、これまでの友情は見せ掛けの友情だったのかと失意しました。
そんな中、落胆した島民はペリリュー島北部のガラコル波止場で疎開のために日本軍が準備した大発動艇に乗り込み、大発が島を離れることとなりました。見送りには誰一人来ませんでした。
しかし、しばらくすると、その地区の日本兵全員が手を振って浜へ走り出てきたのです。
☆中川大佐の本当の意図☆
中には軍帽を振ったり、陣地構築作業中に一緒に歌った即興の歌を合唱しながら見送る兵士たちもいました。
その様子をみた島民たちは、日本軍に抱いた不信感は誤解であり、信頼に足る日本軍人たちであったと理解したのです。
その時、初めて中川大佐の意図を知ることとなりました!!
島民たちが離れた後、ペリリュー島の戦いは激戦を極めました。
そうした中で、島民に一人の戦死者を出さなかったことは特筆に値すると賞賛されました。
戦いの後、島に戻った島民たちは、無残に打ち捨てられた日本兵の遺体を見て涙しました。
そして、島民たちは丁重に彼らの遺体を埋葬しました。
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☆誇りに思う大和魂☆
確かに彼らはアメリカ軍に敗北しました。
しかし、彼らは島の住民を戦争に巻き込むことなく、彼らは己に打ち勝ち、誠を守ったのだと思います。
私は日本人として彼らを誇りに思うし、日本人の矜持が何であるかを学べるような気もします。
戦争は不幸なことであるし、先の大戦を肯定しようとも思っていません。
コロナ禍の中で今年は戦争について、例年と同じようには触れられておりません。
今年で戦後76年となる今、こんな時代だからこそ、客観的に日本の近代史を見つめ直してみる時なのかもしれない、そのように思います!!
☆受け継いでいく"YAMATO" "サクラ"☆
ペリリュー島では、日本からの援助で購入されたコロールとの連絡船は、「YAMATO」と命名されています。
また、ペリリューに桜は咲きませんが、日本をイメージする「サクラ」という言葉には人気があり、スポーツチームの名前等にも使用され今でも受け継がれています。
私達日本人も、先人が残してくれた日本人としての素晴らしさを後世に伝えていかなければならないと感じました。
「命は掛け替えのない大切なものです。でも人間はその大切な命に代えても守りたいものを持たなくてはいけないのだ」と改めて感じました。
男女共に、結婚をする前、した後もお相手を想う気持ちを、再度見直すきっかけになって頂ければ幸いです!!
自分の命に変えても守りたいと思えるパートナーと出会えることを心より願っております!!