日本仏教における「悪人正機説」とは何か

今回は親鸞(しんらん)の提唱した悪人正機(あくにんしょうき)について解説していきます。


1・悪人正機説とは

悪人正機の正機の意味は「仏の救済対象者」の事を指します。
また、悪人の意味は「修行をしていない、煩悩まみれの普通の人や、自身の罪を自覚し、苦しんでいる人」となりなす。我々が一般的に使用している悪い人や犯罪者のような意味ではないのがややこしい点かと思います。
つまりは「怠惰で修行に励まない人ほど、極楽浄土へと往く資格を有している」と解釈します。
何故そのような主張が生まれたのでしょうか。

2・親鸞という人物

悪人正機を説いたのは親鸞という人物です。
彼は12世紀〜13世紀の宗教家で、浄土真宗の開祖でもあります。
彼は「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや」=「善人でさえ往生できるのだから、まして悪人はいうまでもない」という言葉を残しており、自力で修行に励む善人よりも、自身の悪徳や怠惰さに絶望し、阿弥陀如来に救済されようと頼み込む悪人の方が、阿弥陀如来の救済対象にふさわしい、と解釈しました。

3・なぜ、親鸞はそう考えたのか

浄土真宗という派閥自体が、阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊(最重要視すること)しており、阿弥陀如来は、自身がどんな罪人でも救済が可能な唯一の如来という特徴があります。
ですので、理屈としては
①阿弥陀如来は全てを救う能力がある
②親鸞は修行以外の方法で仏に救われる方法を模索していた
③じゃあ、阿弥陀如来を信仰対象にした団体を作ればええんや!
…となったのでしょう。
親鸞からすれば、自身にある悪を認めるか否かが、仏にすがれるか否かの分水嶺だと解釈したのでしょう。
己の悪を自覚すること_それが、信仰への第一歩へとなると考えたのです。

また、親鸞の定義する善人というのも独特なものでして、親鸞曰く「すべての人間はまず悪人でしょ」とのことで、善人も善人で自身の本質(=悪)を理解していないが故に、彼らもまた「悪人」であると定義しています。
つまり救済のプロセスとしては
無自覚な悪人→自身の悪を悟った悪人
という変化が必要になり、2種類の悪人がいると考えられます。

つまり悪人正機説というのは、阿弥陀如来に救済されるために、自身の悪を悟りなさいということになります。


4・感想

概要を調べてて思ったのは「『悪人』という文言を字義通りに解釈して、悪いことしても極楽浄土にいけるんだ、と考える罪者者を増やさないか?」という疑問でしたが、調べたところ、案の定「本願ぼこり」という犯罪者を輩出していましたね。おいおい…
ですので、当時可能だったかどうかは不明ですが、「堕落者正機」とか「内省正機」などの別の語に置き換えた方が分かりやすいのでは?と考えてしまいました。
個人的にはこの思想、キリスト教神学との親和性が非常に高い思想かもしれない、と考えており、前回の投稿と比較して読んでみると面白いかもしれません。


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