宗教の反社会性とは

ある書籍を読んで、ふと疑問に思ったので、まとめてみました。


1・今回の参考書籍

本記事で引用した書籍は架神恭介(かがみ きょうすけ)氏の『完全教祖マニュアル』になります。
本文中で作者が指摘している通り、確かに宗教の解説本は数多ありますが、教祖のなり方についての本は今まで無かったかと思われます。
教祖のなり方や運営方法を羅列しているのですが、何というかこの本は作者の高い知性が垣間見えるのに、意図的にどこかふざけて表現している様が、すごくサウスパークに似ているなぁと感じてしまいます。
同じ著者の原作小説・漫画である『ダンゲロス』シリーズも、凄く理詰めな能力バトル漫画なのに、無駄にエログロ描写が多く、まるで青年誌版HUNTER×HUNTERみたいなので、そのような作風がかなり好みが分かれそうな作品となっております。
さて、そんな奇抜な一冊ですが、筆者がすごく気になった箇所がありました。

筆者の他の作品群。これらを出版しても咎められないのは日本の良い所でしょう。



2・宗教は反社会的?

先ずは引用から

本文中にも書いた「宗教は社会の安寧秩序を保ち、人々の道徳心を向上させるものであり、社会を乱すものであってはならない」というアイデアを持っている日本人は多くいると思いますが、この考え方はどうも明治時代の政治家による宗教への政治的解釈が、その起源となっているようです。大日本帝国憲法にはこうあります。「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有す」つまり、「社会を騒がせないなら」自由に信仰していいよ、ということです。この観念が現代にまで影響しているのではないかと思われます。

『完全教祖マニュアル』p40

まず、架神氏の指摘が合っているとするならば、社会に悪影響を及ぼさないなら信仰は自由ですよ、という発想は、少なくとも日本においてはかなり歴史が浅い解釈です。
個人的に気になったのは、三行目以降の「明治時代の政治家による宗教への政治的解釈が、その起源となって」という箇所です。
現代では多くの人が、オウムや統一教会みたいなカルトじゃなければそれでいい、と思っている(筆者も同感です)この発想の大元が、政治家という権力者の都合が発端というのは何かと気がかりです。理由は後述します。
架神氏もそこにフォーカスを当てます。

しかし、これはあくまで「政治的な」問題であり、宗教の本質とは無関係です。たとえば暴れん坊の人が浄土数の信者となり、阿弥陀仏への信心を得ることで人格的に丸くなって社会秩序に貢献するようになったとしましょう。しかし、浄土教の目的は、あくまで阿弥陀仏への信心を得て救いを受けることです。社会秩序への貢献は「結果的に」そうなったに過ぎず、それを目指すことが浄土教の目的ではないのです。ですから、私たちが「宗教は社会の安寧秩序に貢献するものであって欲しい」と願うのは自由ですが、「宗教は社会の安寧秩序に貢献するべきだ」と理想を押し付けるのはお門違いと言えます

同上 p40~41

「宗教の本質とは無関係」なのは、本当にその通りだと思います。
なので、「宗教は社会の安寧秩序を保ち、人々の道徳心を向上させるものであり、社会を乱すものであってはならない」のは、政治の領域の都合なのでしょう。
踏み込んで話すなら、宗教の修行僧というのは、世俗の人間よりも、税金を納めないし、家庭を持たないし、時世によっては反戦デモで集団自殺したりするので、政治家から見れば、経済を回さず次世代の生産も行わない存在に映るのかもしれません。



3・何が問題なのか

先程私は、政治家による宗教の信教に対する理解が、日本人の宗教観の発端である、ということに問題があると述べました。
なぜなら、宗教の反社会性には、社会を良くするための改革性を有してる場合があり、それを排除しかねない考え方だと捉えているからです。
つまり、社会・政治の側が不正義である場合を想定していない様に映ります。

社会秩序と宗教に関しては、しばらく前に起こったチベット仏教と中国共産党の毛皮を巡る珍騒動がこれを考える良い一例となるでしょう。チベット仏教のトップであるダライラマが野生動物の保護を訴え、「毛皮を着るのやめようぜ」と言ったところ、感銘を受けたチベットの人たちが自主的に毛皮を燃やし始めたのです。すると、これに怒ったのが中国共産党。おそらくダライラマのチベット人への影響力を削ぎたかったのでしょう。「おい、てめえら。毛皮を着やがれ」とチベット民族に毛皮の着用を強制し始めたのです。まるで「饅頭こわい」のような話ですが、しかし、この騒動でチベット人に逮捕者も出ており洒落になっていません。
この件は傍から見ればダライラマの言ってることの方が正しく感じられますが、中国当局にとってはこれも「社会の安寧秩序を揺るがす反社会的行為」なのです。中国とチベット仏教の関係はちょっと極端な例かもしれませんが、日本でも同様のことがないとは言い切れませんし、また、今後起こるかもしれないことは理解しておくべきでしょう。

同上 p41~41

他にも、イエス・キリストやフスやルターのケースも分かりやすいと思います。
本書でも紹介されていますが、イエスが処刑された理由はざっくり言うと「ユダヤ社会を混乱させたから」ですが、彼が戒律を悉く破ったのには、彼なりの正義感がありました。
当時のユダヤ社会というのは、神が世界を作った七日目には休息を取ったから、我々も休むべきだとして、日曜日を休日にしました。ですが、それを徹底した結果、日曜日に事故でケガをした人や急病人がそのまま治療されることなく亡くなるケースが頻発しておりました。イエスはその状況をおかしいと判断し、当時ではタブー視されていた「日曜日の医療行為」をしてしまったのです。他にも貧しい者や娼婦などの、当時の社会的弱者や卑賎扱いされた人々にも、救いの手を差し伸べ祝福しました。
現代の感覚ですと、イエスの一連の行為は常識的ですが、当時のユダヤ社会ではこれらが反社会的行為として非難されていました。
私としては、凄惨な拷問の末、十字架に架けられるリスクを背負ったイエスは立派な御仁で、当時のユダヤ社会の方がおかしく映ります。
このように、オウムのような一方的に社会混乱を生み出す文字通りの反社会性もあれば、社会改革をされる側が、本来改革や改善というべき行動を、「反社会性」の烙印に挿げ替える反社会性もあるのだと思います。
どうやら反社会性にも質があるのでしょう。


4・感想

この書籍は結構面白く、今年読んだ本の中でもトップクラスに読みやすいです。教祖になるためのマニュアルと銘打ってはいますが、中身を見れば、カルトに騙されないための、信者にならないためのマニュアルとも読み替えられると思います。
因みに筆者はHUNTER×HUNTERが大好きで、特に「制約と誓約」や念能力とは別の「念の修練度」といった細かい設定が、オタク心を刺激します。
架神氏の『ダンゲロス』シリーズも、能力のデバフや相性がかなり凝っている作品で、ジョジョ7部と同様に、能力に胡坐をかかず銃器や刃物を出してくる漫画なのもよいですね。何よりも、最強同士が衝突した時の裁定がどうなるのかを、作者なりに理詰めしたのが素晴らしいので、マイナー漫画にするには勿体無いなぁと感じております。
過激な性描写と残酷描写がなければもっと人に勧めてたことでしょう。



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