性悪説とT・ホッブスとの関連性

今回は、トマス・ホッブスと性悪説との関連性を吟味していこうと思います。性悪説に関する解説は、下記をご参照ください。

1・トマス・ホッブスとは

トマス・ホッブスの名前は、公民や倫理の授業では必ず聞くでしょうが、何をしたのか良くわからないと思われます。
彼を一言で評価するなら「近代国家の基礎を作った偉人」でしょうか。彼の「自然状態」や「社会契約」などの語は、今日でも重要語句として、学生が日々学んでおります。
では、彼の政治理論に性悪説がどのように絡んでくるのかについてみていきます。

2・政治学における性悪説とは

その前に、何故筆者が政治学に関して善悪を絡めて論じるのか、踏み込んでいえば、何故そこに拘るのかを述べていきたいと思います。
私の感覚としては、政治(学)というものは、その対象である人間がどうであるか、どのような性質・特徴・普遍的な生体を有しているのかが前提で論ずる必要があると思えるからです。
なぜなら、我々にとって有益でなければ何のための権力なのかが不透明になってしまうからであり、さもなくば、「不必要な」学問となってしまうのではないでしょうか。
今回のテーマには、彼の意見が該当するでしょう。

すべての国家理論および政治理念は、その人間学を吟味し、それらが意識的にであれ、無自覚的にであれ、「本性悪なる」人間を前提としているか、「本性善なる」人間を前提としているか、によって分類することができよう。(中略)かんじんなことは、(中略)人間というものを問題視するかしないかなのであり、人間が「危険な」存在であるかいなか、危なっかしい存在であるか、それとも無害で危なくない存在なのか、という問いに対する解答なのである。

カール・シュミット『政治的なものの概念』p70

つまりは、政治(学)においては、対象である我々が生まれながらにして善か悪かによって、その政治権力や政治理論も大幅に変わると思います。

3・ホッブスにおける性悪説の立ち位置

では、ホッブスの政治理論_その対象者である我々人間に対して、どのように評価しているのでしょうか。彼は『リヴァイアサン』にて「人間は人間にとって狼である」と書いています。この言葉だけを聞いても「性善説っぽい発言じゃないよなぁ」と思えます。
彼の政治理論の中で最も有名な言葉は「万人の万人に対する闘争」ですが、この言葉の意図も、人々は放っておくと自己の生存の為に殺し合いをするから、全滅を恐れて編み出した妥協の産物が政治(国家)なんじゃないのか、というホッブスの人間に対する、ある種の諦観を感じ取れます。

4・まとめ

もし、政治における最も初歩的なベースが性善説と性悪説であるならば、我々は一生争わなければならないでしょう。我々は一人ひとり同じ人生を歩んではいないからです。これは言い換えれば溝のようなものです。ホッブスが性悪説を前提の国家論を築いた経緯として、彼が生きた時代が強い影響を与えております(当時はピューリタン革命による祖国イングランドの崩壊が現実的でした)。ですので、人は、その人生が不幸や痛みに満ちていたら性悪説を基にした政治原理を、家族に愛され友人や恋人に恵まれていたら性善説を、それぞれ唱えるのではないでしょうか。
この溝を埋めるためには、やはり学問や歴史などの「知」が必要になるのかなと思います。宗教家の意見としては、宗教による「同質性」なども、場合によっては有効になるのかなぁ…





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