私が性悪説に対して思っていること

今回も性悪説シリーズになります。


1・経緯

性善説・性悪説とは、以下の意味になります。

性善説→人間の本性は、本来的には善であるが、状況によっては堕落してしまうため、修練によって本来善を発揮させ続けるべき、という思想。

性悪説→人間の本性は、本来的には悪であり、このままでは社会秩序が乱れたままになってしまうため、修練によってその悪を押さえつけ続けるべき、という思想

https://note.com/enmeikyo314/n/n8a7071b6c246

つまりは、性善説も性悪説も、人間に対する価値観が異なるだけで、教育が大切である、という結論は同じになります。
私個人としては、性善説を信じたいのですが、最終的には性悪説を推しています。
その経緯を話せればな、と思います。

2・社会は性悪説がベースで出来ている、という自論

我々が住んでいるこの社会という場所には、色々な抑圧があります。
ここでいう抑圧とは、上からの圧力です。
政治や法律などが国家と社会とを維持している側面は、絶対的に否定しようがありません。もし否定したいなら、誰も自治や統治権のない土地でひっそりと生きていくか、アナーキストかテロリストになるくらいしか選択肢がありません。
さて、政治や法律というのは、性悪説がベースなのでしょうか。
私はそうである、と主張いたします。

3・論拠

それはすごくシンプルです。
もし、人間が皆、生まれながらにして善性がベースなら、国家や法律(特に刑法や刑事罰)は存在しないと考えられるからです。
考えてみれば、我々人間は、概念という、目には見えなくとも、その働きや性質を理解する知能があります。
もしこの世界が、争いのない平和な世界だったら、政治や法律を観念することが不可能じゃないでしょうか。
それが、筆者が性悪説を推す一番の根拠になります。観念出来てしまうが故に、その存在をあるがままに受け入れた結果が、タイトルの説になります。

また、性悪説に対していつも思うこととして、「性善説を個人的に推すのとは別に、性悪説的なアプローチをしなければいけない」ということが挙げられます。
どういう事かというと、性悪説をベースに社会を運営していかないと、被害が出るケースが頻発する、という事実があります。
例えば、駅前にある駐車禁止のエリアというのは、大体が視覚障碍者のための点字ブロックがあります。
もし、人間の善性を信じるならば、対策はする必要がありません。
ですが、既に皆さんは、そこに意味がないことを分かっているのではないでしょうか。

4・感想

今回の記事は、引用無しの純然たる筆者の思いや考え方を羅列してきましたが、やはり私の根っこはネガティブだなぁと、改めて実感しました。
ですが、個人的には、自分のネガティブさは愛しております。
少なくとも、愛だとか平和などの、誰が言っても一定の支持を得る「便利な」単語を使わずして、社会を変えたいと願う人には、現実をあるがままに受け入れたうえで、具体的な計画を実行する、ある種のネガティブさが必須だと捉えているためです。
最後に、次の記事に出てくる哲学者、ガリンベルディ先生の言葉で締めたいと思います。
「いつものように人間の正体を教えてくれるのは美徳の方ではなく悪徳の方である」


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