ヒンドゥー教の実践的宗教家 ラムモホン・ライの簡単な解説

今回から2本にかけて、インドの著名な宗教家を解説していきます。
日本で彼を調べるとなると、まず資料を探すのに手間取るため、近代インド宗教史を知りたい方は是非読んでみてください(そんな人いるのかね…)


1・ラムモホン・ライとは


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6e/Portrait_of_Raja_Ram_Mohun_Roy%2C_1833.jpg

彼は18~19世紀のインドの宗教改革者です。
彼は主にインド国内のヒンドゥー教の教義に反発した方でして、近代化の妨げになりそうな教義の廃止を実行した方になります。
彼の思想を解説する前に、当時のインドについて解説していきます。

2・時代背景

18~19世紀のインドは、いわゆる暗黒期でした。というのもイギリス帝国による植民地支配により搾取されていました。特にムガル帝国の支配が崩れたのちには、今まで抑えられていた地方(主にマラーター連合、ベンガル、アウド、ロヒルカンド)の情勢も不安定になり、その上イギリス帝国とフランスの植民地獲得の戦争も加わり、かなりの混乱期でした。
ですので18世紀後半のインドの文化・知的水準はかなり低かったそうで、知識人のレベルにおいても低く、サンスクリット語やヒンドゥー教の聖典、古典の研究は事実上途絶えていたそうで、文学作品も低俗な作品しか見つかっていないとのことです。
個人的に驚いたのは、上流階級のほとんどが、文字の読み書きが出来なかったというのです。

3・当時のインドの社会習慣

そのような感じだったためか、迷信や教義の悪用が多数見られたそうです。
例えば、富裕層やバラモン(ヒンドゥー教の司祭)では、一夫多妻制が蔓延しており、児童婚、女児殺し、第一子の殺害などが広まっていったようです。
このような状況だったためか、民衆も貧困と無教養の中で、宗教の伝統と指導者に盲目的に従ってしまいました。
そのため、全て聖典の内容が全てである、という迷信と、バラモンが社会の実権を握るという悪循環が発生していました。

4・ラムモホン・ライの宗教・社会改革

このような時代に最初に声を上げたのが、ライ氏です。
彼は他の知識人やバラモンと違い、母国語だけでなく英語を学んだり、ヒンドゥー教のみならず、イスラム教やジャイナ教、キリスト教の知識にも精通していました。
主に彼は討論の場、雑誌の出版、協会の創設、学校の建設などを行いました。
例えば、討論の場として「友好協会」という組織を作って、ヒンドゥー教の聖典を朗読したり、カースト制度や一夫多妻制度が如何に社会悪かを説きました。
また、彼はヒンドゥー教の聖典が、古代ヒンドゥー教と違って如何に堕落しているかの研究を通じて、ヴェーダ聖典、という聖典が今のインド社会に必要な教義であると結論し、様々な言語に翻訳し、しかもそれを無料で配ったりもした。
そんな彼の一番有名な功績に、サティー制度の廃止運動が挙げられます。
サティー(寡婦焚死)とは、夫が死んだときに、妻も夫の亡骸とともに焼身自殺をすることで、ライはインド社会における女性差別に反発する形で、実際のサティーの現場に赴いてデモをしたり物理的に止めに入ったりしていました。当時のイギリス帝国にも法律で禁止するように嘆願書を出したり、イギリスに直接赴いて演説をしたりなど、本当に精力的に活動を続けていたお方になります。

5・感想

率直に言って、私は彼を非常に尊敬しています。個人的に悲しいのは、彼の行動・功績にもかかわらず、それが結果的にイギリス帝国の実績にカウントされていることです。因みに、本記事で参照している彼に関する貴重な本『近代インド思想の源流』でも、彼の名前がRoyからRayに誤植?されていたりと調べてて不遇な方という印象を持つようになりました。実際、その時代の輝かしい期間の著名人よりも、暗い時代の著名人(黄金期になるまで支えていた人物)というのは、あまり話題にならない傾向にあると思います。今回で言えば、インド独立の父であるガンディーは滅茶苦茶有名人ですが、近代インドの父は、少なくとも日本ではマイナーです。今後もいろいろな人物を調べていきたいと強く思えました。

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