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春画はエキゾチックか? 山本ゆかり「春画を旅する」を読む

日本は性に対してオープンな国なのかどうなのかってのはいろんな意見がありそうです。青少年健全条例とかいったり、マンガやアニメの表現規制がどうとかいったり、コンビニに18禁の雑誌が置いてありスポーツ新聞の女性の裸を堂々と広げて読む男性はとんでもないという抗議がされたり、いろいろあります。
こういう視点は同じ国内にいる人々があれこれいうより、海外の人がどうみているかの方が参考になるのかもしれません。

たとえば、アニエス・ジアール「エロティック・ジャポン」のように、現代日本のエロス的イメージをフランス人女性の視点を通して解体、再構築したような本を見ると、私たちの周りにありつつ、時には目を背けているものが、全く異なる姿で立ち上がってくるのを見ることができます(日本人からみるとところどころ勘違いなのか意識的なズラしなのかわからない微妙な違和感がますます自分の国のエロスなのにエキゾチックな異国感を感じさせるのですが)。
海外から見れば、私たちが議論しているものであっても、とてもエキゾチックな文化に過ぎないことも多々あるわけだ。

海外から日本の現代のエロティック文化を見るエキゾチック感と、現代日本から江戸時代のエロティック文化、そしてそれを描いた春画を見ること、というのは距離と時間の違いはあれ似ているのではないでしょうか。
現代日本人は、最初に挙げたような身の回りに性的表現を大量にまとわりつかせた空間に暮らしているくせに、奇妙な潔癖さによって制限をかけるのは、おそらく明治以降や戦後の西洋化における自分たちの古来の文化と西洋とに引き裂かれる部分での妥協点の模索のようにも見えます。アダルトビデオが隆盛を極めてもなぜかモザイクは消せないとか。西洋の感覚からみれば、大人が見ないための年齢制限をかけて、大人のためのものと標榜してるのに、子供が見たときのためにモザイクをかける、なんてのは論理矛盾も甚だしいに違いありません。
日本のエロティック文化は隠さなくちゃいけないという後からやってきた強い西洋的意識と、それでも隠さないおおっぴらさを守りたい日本の感覚のせめぎ合いの中で、現代まで育ってきているようです。

そして、その隠さなくちゃいけない感が拭えないため、本来の日本のエロティック文化の一つである春画は、あまりに露骨であるために忌避されざるを得ない存在でもあったわけです。
それを先に文化として認めた西洋にとっては、純粋な鑑賞対象に過ぎなかったわけで、日本のようにこれは芸術だとか猥褻だとか、性器がまともに見えていたらとにかくまかりならん、とか面倒なことはなかったから、海外が認めてから、やっとこさ日本でもっていう、よくある逆輸入パターンにならざるを得ないのもしかたなかったのかもしれません(でもそれって結局は何か遅れてるってことですけどね)。

2003年のヘルシンキ市立美術館での春画展、そして、2013年の大英博物館の大規模展という海外でのお墨付きがあって、やっと昨年の永青文庫、今年の細見美術館での春画展へとやっとつながったわけで、それまではわずかに出版物で見るしかなかった、それも多くはボカシ入りだったり、という体たらくだったことを思えば、展覧会、書籍と春画に関するものがちゃんと展示、刊行されるようになってめでたいことです。

山本ゆかり「春画を旅する」は、著者もまえがきに書いているように、教えている大学の学生から一冊で春画の概要がわかるような本はありませんか、という質問を受けて、春画に関する教科書のようなものをイメージして書かれたものです。
まさに、そのイメージ通りのとてもわかりやすく、春画に関して歴史、画家、用途、江戸文化、動物、小道具、風習、季節との関連性を章立てで解説してくれます。

よくエロを進化させるのは先進の科学技術ってなことが言われます。今ならIT、コンピュータ、映像技術などがエロを進化させるし、最初にそのような先端技術を実用ビジネス化させるのがエロ関係ってのもありますよね、たとえば仮想現実だったり3D映像とか、もしかしたら人工知能なんかも。。。
江戸時代の春画の場合は、浮世絵という限定された面であるにせよ、その技術、表現を進めた面はあるようです。需要はあるわけですからね(それも単にエロとしての実用性だけでなく)。
そして有名な浮世絵師は、皆(おそらく有名な絵師では東洲斎写楽以外は)、相当量の春画も分け隔てなく浮世絵作品として書いているわけですから、技術だけでなく表現も洗練されていくのは当然といえるでしょう。この通常の作品とエロ作品とを区別するという現代的感覚とは無縁であったところも少し現代の美術表現におけるエロスとの接続が異なるところかもしれません。
この本でも師宣から、清信、春信、清長、歌磨、栄之、北斎、英泉、豊国、国貞、国芳という代表的な絵師達がどのような春画を残したか、同時にそれが浮世絵の歴史として作風、風俗の描き方の変化として見られるのはとてもわかりやすい解説ポイントだと思います。

たしかに昔は日活ロマンポルノあたりの監督から、メジャーな映画会社の映画を撮影するように有名映画監督になるとかありましたが、今、有名な映画監督が平行してアダルトビデオも作るとかポルノ映画を作るとかないでしょうし、あ、でも有名な漫画家が、同人誌で18禁漫画家を描くってのはありそう、その意味では、やはり漫画は浮世絵といった庶民文化の継承者、サブカルチャーとしての正当な位置を得ているといえるかもしれませんね。

私としては、豆本春画であったり、花鳥風月との絡みであったり、江戸時代の文化風俗と密接だった春画という文化が、今の目からみれば露骨な性表現であったにせよ、やはり洗練された文化としか思われないのでした、
このような風俗と密接につながっていた春画をみると、たしかに現代のエロティック文化はやや即物的かもしれません。あまりアダルトビデオに季節感ってのはなさそうだし(コスプレとか職業的な風俗性はあるかもしれないけど)、アダルトビデオを箪笥に入れておいたら虫喰いに合わないとか、泥棒に合わないとかなさそうだし。。。

最初に書いたように、すでに私たちはこのような春画もすでにエキゾチックなものとしてしか鑑賞できない立場にいるわけです。それでも展覧会として見られることが一般化すれば、逆に日本の現在のエロティック文化の表現、そして評価への影響もあるはずだと期待したいんですけどね。。。

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