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私の(音楽脳の)でき方

自分が子供時代恵まれていたと思うのは、親がアカデミックな職業だったから本が山程あったこと、何を尋ねても答えてくれる親だったこと、いつも親とご飯を食べいろいろ連れて行ってもらったこと、音楽と算数を早く教わったことだ。

本がたくさんあったことで今のような活字中毒になれたのは個人的には大変幸せだったし、小学校時代から戦前の本やらなんやら区別なく読んだので旧字体にも困らず、文語体にも困らず違和感なく読めるようになったのはよかった。だからといって親や祖父母世代のように漢文まで自由にとはいかないわけで、後々、そんなのも読めないのかと言われ続けたりはするのだが。

そして、わたしは塾というものにはほとんど行かなかったが、それは親が大抵のことは教えてくれたからで、小さい頃からこれって何、どういう意味、と言ってもすべて答えてもらえたからありがたかった。もちろん両親には、そんなになにもかも人に聞いてたら、ちゃんと辞書とか引く習慣はできないし、そんな聞き方では身につかないと言われ続けたが、聞けばこたえてくれるものが存在するからにはやはりそれを利用しない手はないわけで、おかげですべて人的インターフェースに頼り続けたのだったw

その一方で、尋ねるたびに、そんなことも知らんのか!と嘆かれることしきりだったので(小学生相手にそういわれてもねぇ)、なんか自分がバカみたいだった、、、でもそれはその後も中学以降も成人になっても私は親から見れば物知らずな奴であり続けることになるのだったww

上のことともつながると思うんだけど、今になってよかったなと思うのは親とほとんど毎晩一緒にご飯を食べ続けていたことだ。それはわたしが大学で東京へ出てくるまで続いた(高校以降は母が病気をしたのでなおさらだったわけだが)。幼稚園の頃からずっとうちの晩御飯は午後8時から9時頃だった。父親が家に帰ってくるのがそのあたりだったからだ。先にご飯を済ますということは全くなかった。おかげで親と常に会話をする場が晩御飯だった、っていうかテレビはついてるは、いつも居間にしかいない私だったのだが、、、親とはやたら話していたように思う。後年、大学時代に友人が来たことがあって、飯とかも親と一緒に食べたりもしたのだが、後で、不思議そうに、お前んとこは親といつもあんなこと喋ってるのか?と尋ねられたことがある。おそらく一般的な世間話とはちょっと違ったのだろうけど、それがどう違うかは私は他の家のことは知らないのでわからないのであるw
だから、世間では晩御飯って午後6時、7時に食べるのが普通とか父親が帰ってくる前に済ますといったことを聞いたときにはすっごく驚いたのだった。そいでもって、近所の名所やらご飯やら美術館やらにも連れて行かれのしてたからほんとによい親だったと思うしかあるまい、、、

塾とかにはほとんど行かずに済んだし、親に勉強しなさいとはたしかによくいわれた(それは単にわたしが勉強しなかったからにすぎない)が、強要されることもほとんどなかった(宿題が終わるまで遊びやご飯はダメみたいな類いもなかった)。でもそんな中で親に面と向かって教えられたのは算数と数学だった。小学校中学年の頃に岩波全書の「代数入門」を読まされたこと、これだけは多分唯一直接親に勉強させられた経験だと思う。「数学セミナー」のような雑誌に出会ったのも小学校6年か中学1年頃だろう。あと、ずーーっと語学はできないとあかんと言われ続けたが、これだけはどうしても全く身につかないというかやれないことだった。そのくせ、フランス語、ドイツ語、中国語とかで100まで数えられる、というか、風呂で数えさせられていた嫌なガキではあったのだが。。。でも、語学はなんか勉強すればできるんだろうなあと思いつつやらないダメな奴だったので、おかげで中高期間中唯一赤点を取ったのは英語だったし、大学入試でも英語は捨てて点数計算をしていたのだったw

音楽は年がずっと離れた兄がヴァイオリンをしていたせいで楽器は小さいときから身近で、ヴァイオリンをやるのは自然だった。でも兄がそこそこうまかった(シベリウスの協奏曲とか弾きやがるんだもん)ので自分の下手さに絶望して中学でチェロに転向することになる。きっと小学校6年の頃に上村昇氏のハイドンの協奏曲を聞いてすげぇ、と思ったのが大きい。以降、私は上村氏は別格であり続けた(ヨーヨーマとか聞くようになった後でも)。そんなわたしの小学校時代に一番聴いたレコードはドヴォルザークの新世界とチェロ協奏曲とショスタコーヴィチの交響曲第5番だった。そんなわたしに現代音楽の波がやってくるのは小学校5年の頃の矢代秋雄体験以降である、、、三善晃のレクイエムに衝撃を受けるのは中学1年だ(有名な「変化嘆詠」とのカップリングのレコード)。

あと縦笛もずっとわたしのそばにあるものだった。今はなつかしの日管のスペリオパイプが転がっていたので幼稚園からそれを吹いていた。だから小学3年生で縦笛に触れる以前に縦笛はわたしには吹くのが当たり前の楽器だった。多分、季刊リコーダーや全音リコーダーピースにであったのが小学校5年頃のはずである。実は現代音楽としてのリコーダーにも中学1年までには出会うことになるのだった(ちょうどメディテーションやらブラックインテンションやらが出た頃だ)。。。以降、リコーダーは、真剣にはやらないけれどずるずるべったりと近くにあり続けて楽器だ。

当時、私よりもずっとリコーダーが吹ける存在が同級生にはいたので、まあしゃあないなという感じはずっと持っていたわけで勘違いせずに済んだのかもしれない。その人物は今もフレンドにいるが、プロのフルーティストになっているから、まあ、少なくとも妥当である。その人のおかげで私も矢野顕子を知り好きになり、YMOやら立花ハジメやらJAPANやらという系列にはまることにもなるのだが。。。

クラシック系に戻ると、体験的音楽史では中学1年がバルトークとストラヴィンスキー、中学2年がウィーン楽派、さらに日本の現代音楽、中学3年が全般的現代音楽だった。考えてみるとマーラーはワルター指揮の輸入盤が中学2、3年、ブルックナーはもっとあとだっただろう。おかげで未だにわたしのどこか筐底にあるだろう、中学2年の頃に作った弦楽三重奏曲はばりばりベルクかウェーベルンそっくりの12音技法だったし、中学3年頃に作った四重奏は編成は高橋悠治の「この歌をきみたちに」と同じ、音列の扱いは超幼稚だけど後に菅野由弘「砂の都市」とそっくりだったことに気づいたww(といっても菅野氏の作品はずっとあとの作品だけど)ってことで、わたしの音楽脳は古楽側と現代音楽側に固定していくことになるのだった。

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