「かけがえのない世界/平手友梨奈」『時計じかけのオレンジ』から見るMV 考察
これは、私がMVを見て感じ、感じたことを基に解釈した1つの考察と考えで、歌詞そのものや音楽番組でのパフォーマンスは脇に置いた、あくまでMVについてのものです。
レビューというよりは思ったことをそのままに考察を交えながら書き散らしたものだとでも思って下さい。自分語りも多分に含まれます。
元々別サイトに投稿するつもりで書き上げたものの、急遽投稿先を変更したのでnoteに適した文章ではないかと思いますが、ご了承ください。
それぞれの受け取り方があるかと思います。
どうぞそれを大切に。
それでももし、何かの参考になるならば幸いです。
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正直、最初は困惑した。
通知に驚き、出先の暗い夜の屋外にも関わらず慌てて見たMV。
弾けるような笑顔で音楽番組での披露時よりも更に磨きのかかったダンス。
コミカルだったり、艶がかっていたり、慟哭だったりとクルクルと変化する様々な表情。
だが、私は興奮しているにも関わらず、どこか物足りなさを感じていた。
これまでこのタッグが生み出してきた作品と比べるといささかシンプルな作りに思えたからだ。
パフォーマンスは素晴らしく、キラキラ輝き楽しそうで尊い。それは間違いない。
ただ、あの胸を抉られるような切実な「届けたいもの」が上手く受け取れない。
そのことに困惑し、一度スマホを閉じ、モヤモヤとする思いを抱えながら帰路に着いた。
そして明るい部屋で一人もう一度MVに向き合う。
二度目となれば余裕が出てくるのか、彼女以外にも目がいくようになる。そうすると一度目には恐らくちゃんと目に入っていなかったのであろうものにようやく気づいた。
思った以上の世界の崩壊、不穏で意味深なアイテム、差し込まれるカットや演出の意図、考えることは山ほどありそうで、そしてそのまま表面通りに受け取ってはいけない予感。
一度目の感想とは180°の方向転換をし、映像をひらたすら見続けた。
この作品の意図を探るべく道筋を模索する中で、「孤独や喪失を経ても崩壊する残りわずかな世界でもその時その時を輝かせて生きる」だとか、「失ったものの大きさから自分にとって都合のいい虚構の世界に閉じこもるが綻びが生じて崩壊していく」などいくつか考えるが、どうにも差し込まれる社会問題のカット、そして何よりラストカットが腑に落ちない。
ただ、一回目の時から喉に小骨が刺さっているかのように妙な違和感や既視感が付きまとっている。何か、似た何かを感じた事があるように思うのだ。
ただ、どうしてもそれが何か分からなかった。
一旦思考を放棄し、他の人の反応を見てみようと開いたTwitter。そこでTシャツが「時計じかけのオレンジ」のドルーグのプリントだと知り、一気にピースがはまるように感じた。
10年ほど前、私はこの映画を見た。
当時の私は、様々な作品や作家をより深く感じるため、それまでちゃんと見てこなかった名作と呼ばれる映画をひたすら見ては感想をノートに書き付けていた。
映像と共に生きてきた世代がその時々に順を追ってクリエーターの思考を辿れるのとは違い、後から生まれた者は源流を辿り歴史を知るためには膨大な量の作品を遡らなくてはならない。しかも次々生まれる新たな作品を捌きながらだ。
途方もなさに半ばヤケになりながらも、それでもすべてが繋がった時の味わい深さを捨てることが出来ず、ひたすら映像作品に触れていた。
その中で必然的に通ることになった「時計じかけのオレンジ」。
評判は聞いていたため、前もって身近な人に意見を聞くと、傑作ではあるが薦めていいのかわからないと言う。無理しなくてもいいとも。
少しばかり見るか悩んだと思う。だが、暴力表現が比較的平気だったこと、それまでに見たキューブリック作品はどれも面白く、管理社会ものや風刺作品が好きだったこともあり、見ないという選択は結局とれなかった。
結果として見てよかったとは思う。現代にも通ずる内容であり、普遍的なテーマだったとも思う。間違いなく鬼才による傑作だ。
ただ、私は傷を負ったような感覚に陥った。大怪我ではない。棘がそのまま皮膚の中に残ってしまったような、あるいは手術してより良い状態になったのに傷はいつまでも疼くような。
風刺創作だとは頭では分かっていても実写映像という媒体はどうしてもストレートな影響が強い。そして映像手法のせいか、通常よりも視聴者の没入感や当事者性を求められる感覚が強かったようにも思う。社会のエゴ、そして何よりもむき出しの悪意、そういった鋭すぎる刃に当てられてしまったのだろう。明らかに私の能力不足で一度では理解し切れていないことは分かっていたが、疲弊してしまい、どうしてももう一度見る勇気が出なかった。
まさかここでもう一度向き合うことになるとは。
だがこのMVの中でてくる、形は異なるが毒々しい色のキャンディ、ミルクでこそないがグラスに入ったオレンジジュース、白のマネキン。偶然にしてはひっかかるものが多い。
はっきり言って「時計じかけのオレンジ」という作品は“ちょっとそれっぽい”から、“雰囲気に合う”から、そういうファッション的感覚で安易に取り入れる気の起きるような作品ではないように思う。なんせ、ただ人に紹介する時ですら、言葉選びに非常に気をつかうような作品だ。その美的感覚を取り入れたくなる気持ちは分からないでもないのだが。
鬼才キューブリックの生み出した傑作、という事実もあるが、それ以上に様々な意図をどうしたって作品に取り込んでしまう。
映像に携わっていてその可能性が過ぎらないとは思いにくい。
Tシャツだけならそれもあったかもしれない。だが他のアイテムや全体的方向性を見るにまずそれはありえないだろう。
ならば意識的に意味をもって取り入れたとしか思えない。
Student DanceのMVも周りに監視の目があるからこそ成立しているオマージュだ。
全ての人がそうすべきとは全く思わない。だが私は。
そもそもこういった時の為に学生時代を使って膨大な旧作に触れたのではないのか。
これはもう観るしかないな、と思った。
だが、あれだけ気重だったにも関わらず、いざ見てみると思ったより抵抗なく見ることが出来た。作中の悪逆を受け入れられるようになった訳では一切なく、それどころか当時は意識が及ばなかった“悪”にも気付いたが、その嫌悪感も含めて作品だと受容し、主題を見出すことに意識を向けられるようになったのかもしれない。
自分では己の価値観の変化やまして成長など全く感じないが、やはり10年前の年齢時はなんだかんだ繊細だったのだろうか。経験なのか知識なのか。不思議と見えるものが随分変わったように思う。
あとは、コロナ禍における社会情勢に通ずる部分が多く、この約2年間向き合い、考え続けてきたこともあるのかもしれない。
ただ、物凄く人を選び、好き嫌いや得手不得手が分かれても当然の作品ゆえ、人に勧めるには気が向かないことには全く変わりないが。
全体主義が生み出す歪と暴力性、己が信じる正義の為ならば自己矛盾が生じても突き通そうとする人間の欺瞞。
徹底的管理や最大多数の最大幸福の元、自由意思を奪われ押し付けられた善性は真の善性たりえず。
かといって過度な尊重による、放任と表裏一体の自由は一定数の埒外的存在を生み出す可能性を否定できないジレンマ。
私刑と法や国家の下に行われる刑罰。世情によってころころと変わる善悪や正義。
そしてそういった外的要因など本人的にはお構い無しに己の欲望のためだけに生きる悪性と非人間性。
これはそれらを強烈に描いた50年前の傑作だ。
映画では作中、主人公に対して強制的善性獲得のため、音楽と暴力的映像を用いた治療が行われる。主人公の一人語りによって物語が進み、クラシック音楽が効果的に用いられたこの映画は、その治療とどこか似かようような、鏡合わせのような構造にもなっているように感じた。
その構造を組み込みつつも、MVではセリフという手段が取れず、歌詞や音楽に依拠し、時間も限られる中で、気付きのエッセンスとして悔恨、慟哭、孤独のシーンや映画のオマージュをいれたとすれば頷ける。
それらをふまえてもう一度MVを見ると、解像度が上がったように思う。
ドルーグのTシャツを着た主人公と、ブラックスーツではないがモッズカラーのファッションを纏った仲間たち。その周りにはバイク代わりなのか三輪車。中途半端な模倣や安易なフォロワーあるいは暗喩として描いているのだろうか。
もちろん彼らはドルーグのような明確な悪ではない。
もう少しどこにでもいそうな、それでいて少し外れてしまった存在。
彼らは衝動的に刹那的に仲間たちとの刺激に満ちた時間を過ごすが、その背景では世界が炎に包まれ崩壊している様が見て取れる。
その中で無邪気に顔を輝かせ、楽しんでいる姿は一度気付いてしまえば異様だ。
青空を背景に何も無くとも一緒に踊れば楽しかった過去。
花火が彩りキラキラと輝く真実よりも美しく飾られた記憶。
崩れゆく世界から目を逸らし、耳を塞いであげく倦んで退廃した現実。
満たされない孤独と全てを失ってから気づいて溢れる慟哭。
それらが交錯するかのように入り乱れる。
終末時計と言うものがある。人類の終末までの残り時間を時計に見立てて表したものだが、現在は歴史上最も終末に近づいており100秒前とされているという。
コロナ禍も関係してはいるのだが、それだけが理由ではない。気候変動や核兵器や軍拡、サイバー・宇宙空間での競争激化、アメリカと複数国の対立。それ以外にも様々な問題があるが、果たしてどれだけの人がその事を身近に危機感をもって感じているのだろう。
私自身日々に追われ、例え崩壊の時がひたひたと近づいていたとしてもきっと感じ取れてはいない。
ただ昨年、恐らく殆どの人にとっては遠い話であり、たまたま私にとっては身近で衝撃的な出来事があった。
情報が直で入り、これまでの経緯や事情も一般的な人より詳しく追うことが出来ていた。
だからこそ少なくない人が誤っていたり、偏った認識から語り、そして他人事であることにショックを受けていた。
当然で仕方ないとは思う。恐らく私も他の事象ではそういった人間に該当するのだ。
いつだってこの世界はそうだった。
こうして平穏な日々を過ごしている地球のどこかでは必ず戦火が上がっている。
子供の頃、思ったことはないだろうか。「何か面白い事が起きないかなー」と。実際に日常が失われれば、そこには苦しみが必ず伴うのに。
MV内で古いフィルム映像で表現された現在の諸問題。あれらはMVの世界では更に過去の事なのかもしれない。
そして現実世界もきっと気がついた時には後悔してももうどうにもならない際にいるのだろう。
結局のところ、当事者やその近くにならないと自分と切り離し、無関係としてしまえるし、どこまでも他人事に出来てしまう。
そして時に人は、自分の見たいもの信じたいもの、都合の良い事象を選び取り、それを真実とする。惨状を訴えられ、あるは映し出されていても受け入れない。踊っているように見えるペンギンは消えゆく氷に慌てふためいていて、歌っている鳥の背後が荒野と化していたとしても。
手のひらの中にはいくらでも見識を広げられる手段があるのに、ただのコミュニケーションツールどころかおもちゃ同然の扱い、あまつさえゴミにしている。
真剣に語り合う人々の声を聞いてみようともするが、自分にはよく分からないと、結局耳を素通りしてしまう。
映画の中でのキャンディは無知の象徴とも退廃の象徴ともとれた。
さすがに形は真似られていなかったが、MV中それを舐める瞳はどこか倦んでいるような虚無にもみえる。無知に甘え、退屈しているような。
経済学の世界ではかつて、人間は最終的に合理的判断をすると思われていたが、近年では逆で短期的で直接的な幸せを選択すると聞いたような気がする。
全てを失ってからようやく人は過去の過ちと尊さに気づく。
その最中には気づけない。
大切であるはずの仲間が闇に呑まれていても、自分自身に瓦礫が降り掛かっていてすら。
笑顔が曇ることは無い。真実や周囲を見ようとしなければ人は刹那的幸福に引きこもることができる。
私は知らなかった。
こんなことになるなんて思っていなかった。
ただ寂しかった。
仲間と楽しくしていたかっただけなのに。
最初はただただ仲間といられればそれで良かったのかもしれない。それがいつから変わってしまったのか。後悔しながらも開き直ったかのように記憶の中の輝かしい日々に思いを馳せ、世界からは目を背け続ける。
だがラストのシーンがそれで終わることを許さない。
囁く声がするのだ。
……ほんとうに?
ほんとうになにも知らなかったの?
一緒に居られればそれで良かった?
一緒にいてもそれぞれの世界にひきこもり、退屈した乾いた時間だってあったのに。
だからより刺激を求めたのではないの?
ドルーグがドラッグの入ったミルクを求めたように。
だってあの時、崩壊する世界を見て確かにあなたは笑い、楽しんでいたでしょう?
まるで首に、ひんやりとした白い指が絡みつくような錯覚を覚える。
だとするならば、彼らの罪は無知でも怠惰でも退廃でもなく、無関心という加担をした悪だ。
ドルーグは刹那的快楽を求める積極的自発的悪だった。
彼らはその域には到底及ばず、主人公もアレックスとは違う。どこまでも自己中心的で虚飾や偽りを纏ってまで自己快楽に忠実で、反省や仲間への想いの無いアレックスの様な人物では無い。
MVの彼らがどこまで世界の破滅に自発的関わりを持っていたのかはわからない。
けれども無関心、他人事というスタンスでいながらも目の前の短絡的な刺激で笑う彼らの姿は邪悪でないと言いきれるのか。
それはアレックスの邪悪と一体どれ位の距離があるのだろうか。
そして、様々な事から目を背け、自分の世界を生きる現実の私たちは彼らとどれほど違うと言えるのだろうか。
私の受け取り方に沿えば、公開がこの時期になったのも致し方ないようにも思う。時期によっては誤ったメッセージにとられかねないからだ。
たとえそうした意図は無くとも、全く違ったように受け止められる事は多々あり、同じ作品を見ていても正反対の受け取り方がされたり、作者が否定するに至る事もある。
特にストレートでない暗喩的作品は誤解の対象になりやすい。
作品性を大切にしているからこそ慎重にならざるを得ないのも納得だ。
全体主義と個人主義、統制と自由、正義と善悪。コロナ禍以降様々な価値観がぶつかり、曖昧さや相違にジレンマを抱える事が多かったように思う。そして答えは出ないままだし、出ないだろう。
だからこそ今、そのジレンマそのものを歪んだまま描ききった傑作、「時計じかけのオレンジ」をオマージュに作品を作ることに意義があるのではないか。
そしてもうひとつ。
非人間的でありながら人間的邪悪を煮詰めたような主人公アレックスを演じた俳優は、自身が演じた役の人物像が付きまとうことに苦悩し、一時期は嫌悪していたという。後年受け入れられるようになり感謝するようになったとはいえ、その苦悩は想像に難くなく、むしろ覚えのあるものだ。
己とは別人である役を演じる役者には比較的付きまとう問題であり、特に知名度の低い状態で作品がヒットするとありがちだが、音楽のシーンでは頻発する事象ではないので仕方なくもあり、もどかしくも思う。
インタビューなどで散々語られてきた、楽曲やその主人公を表現しているという彼女の言葉、それを決して忘れてはならないという自戒と共に、もっとファン以外の多くの人にも知ってもらえることを願わずにいられない。
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