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スピ系に距離を置いた話

スピ系という言葉をご存知でしょうか?スピリチュアル系の略称なのですが、なにやら「神秘的な話」のことを指しています。
えんじろうは以前までスピ系の話もとても興味関心がありよく動画などで見る機会もあったのですが、ここ1、2年はほとんど見なくなりました。なぜでしょうか?


定義

調べてみたのですが、特にはっきりした定義は存在していないようですね。奇跡や心霊的なものから、神秘的なもに渡るまでかなり広い範囲を指すもののようです。

画像 音の波形

音楽も該当

えんじろうは自分がたずさわっている音楽というものも、スピ系の中に含まれると感じています。実は単なる空気の振動という物理現象でしかない音が、ある一定の秩序のうちにあることで人にとって快適な刺激に変身するのです。とっても「不思議」なことだなと感じます。
まあそんな風に言い出したら、たとえどんなに普通の出来事であっても、そこに何らかの特別を感じさえすればなんだってスピ系になってしまうということもできますね。

普通が特別に変身

えんじろうはどうして自分は生まれてきて生きているのだろうかということを考えるとき(その年で考えるなよと言われそうですけど)、やっぱりそこに意味が欲しいと思ってしまうんですよね。そんな時にスピ系の考え方はかなり便利なんです。たいていのことに理由をくっつけることができるからです。
だからそれが事実かどうかとか、本当に世界はそれに従って動いているのだろうかとか、そんな深いことまで追求する必要はなく、漠然と恩恵の部分だけを受けるようななかなかずっこい利用の仕方をさせてもらっていたわけです。

同志の言葉が励み

そしてそういった考え方がある程度身につくまでは、いろんな人の考えに触れる必要もあり、多くのスピ系動画にふれていた時期がありました。

スピ系の考えでよく言われることは、他人の意見に左右されるのではなく、自分でちゃんと感じることが大切だとされています。それじゃあその考え方を、他人の動画から仕入れるということ自体おかしいんじゃないか?などと思ったりもするのですが、当然何も分からない時はそうするしかないとも思います。

自分で考える

画像 白基調の素敵な建物

ある程度材料と考え方の基礎が身についてくると、ようやく出来事を自分で解釈する試みができるようになってきました。
あの出来事はきっとこういう意味だったのだろう。あれは自分がこういう気持ちを体験するために起こった出来事なのだろうとか。いろんな出来事を自分に都合よく捉えるというのは面白いものです。
このブログ「明るい思考」の題材もほとんどここからきているようなものです。

押しつけ動画

ところがここ数年、そういった動画を見てもなるほどなあとか、今度自分でも試してみようとか、そういったワクワクする気持ちになりにくくなっていたのです。
特に次のようなキャッチコピーを見るととても嫌な気分になります。

「〇〇はウソだった!」
「我々は〇〇されていた!」
「〇〇に騙されるな!」

負のコピー

そう、これらはすべて現存している考えの否定から気を引こうとしているからです。悪口から入る話に、ろくなものはありません。あるのは他人を引っ張り込みたいという願いで、それを「悪意」と言うと思います。

自分にとっては心を軽くするための役割を果たしてきたと感じているスピリチュアル系というジャンルが、「一般の社会が我々を洗脳している」という言葉に乗せて、ひとつの考え方の世界に洗脳しようとしているように見えてしまうのです。
本来なら「私はこう思いました」とか、「こう捉えるようにしたらとっても心が楽になったよ」という言い回しで充分だと思うのですが、インパクトばかりを強調するものが強まっていると感じるのです。

そうしたらなんとなく見るのも探すのも嫌になってきてしまったのです。

みんな必死?

動画を作ってくださる人たちも必死なんだと思います。似たようなことを言う人が次から次へと湧いてきて、それらはすべてライバルになっていく可能性を感じてしまう。そうなればより印象強いものを作ってお客の気を引くしかない。他人よりも刺激的なものを、目につくものを、人を押しのけ生き残るためにあれこれ考えなくてはならない。こういった考えに蝕まれてゆくのでしょう。

こういった考えから解放してくれるためのスピリチュアルだったはずが、スピ系動画戦争のために逆方向に働く。そんな風に見えてしまうようになりました。
いう人が実践できていないのならば、そこに説得力がないのも当然です。

生き方とスピリチュアル

画像 マンデルブロ風不思議図形

いずれにしても今自分は「一般の人により受ける音楽を作ろう」とか「たくさん売れるものだけを作りたい」というふうには考えていません。何よりもそれが「ねばならないこと」になるのが最も嫌だから。音楽を嫌いになりたくないからです。
その結果いわゆる日本の平均収入の半分にすら達していない現状ではありますが、それによって今悲惨な生き方を迫られているかといえば、そうではありません。だってそれに見合った支出にすれば良いだけの話ですからね。本当は何も難しい話じゃないんです。
そして世間的には「わびしい生き方」に見えようとも、自分の心を豊に生きるための手段としてスピリチュアルな考え方は役に立つというだけの話です。

例えば?

あ、今外からジョウビタキの声が聞こえてきたぞ。耳だけでどの方向にどんな鳥がいてどっちを向いてないているのかの想像すらできてしまうなんて、なんて幸せな耳を持っているんだろうか。それじゃあ今度は、ジョウビタキはどんな気持ちで今この鳴き方をしたんだろうか?これについて考えてみようかな?
こんな感じなんです。そしてこんな感じで生きていられる今にとても感謝できています。本当それだけ。

そうしていると音楽が流れ出すことがあります。それを必死で手繰り寄せ捕まえて、物質世界であるこの世に貼り付ける。自分が心で聞いていたものに近いものが現実世界に完成してゆくとき、まんべんの笑顔と喜びがこの胸を満たすのです。
出来上がった我が子のような音楽は、それだけでも充分価値と意味があるものになるのですが、さらに同じものを求めていた人の心に響くと、よりその価値が上昇するのを感じます。お裾分けに近い感覚なのでしょうかね?

それをちょっとはにかみながらCDや楽譜にすることで、この生活を続けるための生命力を皆様から分けていただいているということなのです。

まとめ

これも単なるえんじろうのぼけっとした頭で考えた印象でしかない話ですから、実際はそうでないかもしれません。むしろスピリチュアル的な考えがだいぶ自分の中に定着してきたから、もう外部から取り込む必要が薄れてきてそれで見る気が失せているだけなのかもしれません。
人間って勝手ですから、その可能性のほうが高いかもしれません。

えんじろうにとっては世界の真理でもなければ新興宗教でもありません。気楽に生きようという考え方の1つだと思っています。



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#スピ系 #スピリチュアル #社会 #感覚 #生き方

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