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言葉にできない出来事
千葉稔氏主催の「さや堂オカリナスペシャルライブ 宗次郎さんをお迎えして」から1週間が経とうとしています。あの日のことがまだ鮮明に画像、心の状態、空気感、そして何よりも音として現像される前のような状態で脳裏に残っています。
お許しください
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レポートを楽しみにされていた方ももしかしたらおられたかも知れませんが、大変申し訳無いことに、この日のライブレポートは書くことができません。誰に止められたわけでもなく、書きたくないというか書きようがないという心境なのです。
とにかく自分の人生において2度とないであろう最大の出来事であったことだけは確かです。
2度とないというのは大げさでもなく、こういう機会に始めて巡り合うという体験は、今回してしまった以上はもう2度と体験できないということです。当たり前だけれど、初回は1回だけってことです。
言語化と現像
PC等のデジタル世界では、音も写真も全部デジタルの1と0の組み合わせで表現されています。ところが音も画像も本来は1と0との間も無限に含んでいて、受け取る器によっては無限大の容量を持つものです。
写真なんかではRAWとか言うのがそれに近いかなと思うのですが、それもデジタルカメラで収めた時点で切り取りデータですね。
音楽ならレコードやオープンリールに記録されているものがそれかなと思いますが、カセットテープもオープンリールもレコードも、それぞれの乗せられる分量というものがあるため、結局その場のすべてを記録することは不可能です。
言語にして人に伝えようとする場合も、言語という器に乗せきれる限界量があります。それを何度も長い時間かけて積み重ねれば、多少は増やせるでしょうが、聞かされる側がそれに耐えきれないことでしょう。
結局綺麗にまとめようとすると、端折る必要が多々あるわけです。更に言葉の口調や聞き手の気分など、もうノイズだらけで感じたことを伝えることなんてできない。変な誤解を招くことも嫌。
![](https://assets.st-note.com/img/1708126101482-qwXOobdknJ.png?width=1200)
言わざるの申年
結局言わないのが最適ということになっちゃいました。色々書きましたが、言語化することが嫌な1番の原因は、1度言語化すると、元の情報が変換されてしまうようで、何だかとっても薄っぺらい体験になってしまうことが想像できて怖いというのもあります。
まだこの生々しい言葉になる前の情報からは、色々学んだり感じたりできるものがあると感じているんです。
アナログのまま
というわけで、アナログデータのまま広げておきたいので、皆様にはそういう気持ちになるような体験だったよということだけお伝えさせて頂きます。
なにかが変わった
何だかこうオカリナと活動するに当たり、自分の中で外れかかっていた何かがハマり直したような感覚とでも言うのでしょうか?
原点のとても大切な部分だったのに、最近ぼやけているような不安感を感じていた部分が、再び(いえ最初の頃以上に)明確になったような感じがしています。
もっとオカリナを見つめながら、もっとオカリナたちも向かい合いながら、もっとオカリナたちに寄り添えるように。
えんじろうはオカリナを扱う者ではなく、オカリナと寄り添い奏でる者でありたいから。
千葉さん本当にありがとうございます。今まで生きていて本当に良かったと心から思えました。
ご報告にはなっていないと思いますが、自分の気持ちだけ書かせていただきました。