テレビと現実の区別
年末年始の実家への帰省の中で、父に「今なんか鳴んなかった?」と尋ねる機会が何度もありました。そして決まって返ってくる答えが「テレビだろ?」です。
なんとえんじろうは、テレビの音声と現実の音声を聴き分ける能力が、薄れていたのです!時間があるお正月に調子づき、今回はその件について語ってみます。
テレビの存在
えんじろうの普段の生活の中には、テレビというものは存在していません。情報はスマホで取ればよいですし、いざその電波が停止したときのバックアップはAM/FMチューナーです。チューナーで情報収集はあくまでバックアップなので、普段は利用していません。
余談ですが、昨日収集した情報によるとAM放送は2028年を目安にFM放送電波に統合する流れになっているそうですね。
テレビ搭載PC
驚いたことに、テレビのない生活を始めてから既に15年以上経っています。独り暮らしで浜松市に出てきた際に、PCに内蔵する形でワンセグチューナーを使っていた時期もあったのですが、1年と経たずに処分してしまいました。
なんか電波が弱く、しょっちゅう固まっていたのです。
アナログの場合は電波が弱いなりに砂嵐の隙間から内容を把握できるような情報が入手できたのですが、デジタルはその名のごとく1か0の世界。あるかないかなので、映像も音声も揃った完成形の情報の塊が受信できない限り0(部分的にあってもデータなし)として扱われ、固まったまま先に進めないんですよね。
これ結構ストレスでした。わざわざストレスを感じるくらいなら、触れない方が心が安定することに気が付きました。
NHKとのやりとり
そんなある日、NHK委託会社の取り立てとも言うレベルのやりとりに幻滅し、もうテレビなんて「いらん」となったのです。
当時の携帯電話には「いらん」と言ってもワンセグチューナーが標準搭載されていて、初回起動時の画面が出ていることを職員に見せたのに、機能がある以上は払えとの一点張りでした。その場で携帯を折って「これなら納得か?」と言いたいくらいに煮えくり返りましたが、正規のNHKに電話をして穏便かつしっかり状況を伝えました。
以降はテレビとは無縁の生活をしてきました。
廃用性萎縮
みなさんは廃用性萎縮という言葉をご存知でしょうか?使わないものは萎縮するという、本当にシンプルで大切な法則です。
テレビばっかり見ていると根っこが生えるよとか、歩かないと足が弱るだとか、年齢を重ねて入院すると後が大変だとか。最近は手術の後で直ちにリハビリテーションが開始されるというのも、この廃用性萎縮を最小限に抑えるためですね。
超合理的システム
廃用性萎縮という言い方は、例えば筋肉とか体を構成する部分に対して使われることが多いですが、この挙動というか機能はあらゆる場面で見られるものです。負のイメージを匂わせてしまう言葉ですが、これは実に大切でエネルギーの効率化に寄与する重要な機能だと思います。
例えば記憶。何度も繰り返し経験したものは、記憶のより深い層に入り込むとか。耳から、目から、味から、匂いからと様々な方向の情報を混ぜ合わせた記憶ほど、より記憶に残りやすいだとか聞いたことがあります。
そのことはテレビ・ラジオのCMを見れば、この原理を狙っているのがよくわかりますよねえ。
免疫力にも言えることですね。普段から免疫の仕事があることで、いざというときにも正しく作用する。避難訓練みたいなものでしょうか?
そして大きく体から離れて、あらゆる予算編成の場面でも、このシステムはあるなあと思います。
前回の予算が余った部門は、次回少なくされるというのが、まさにこの原理が働いている結果ではないでしょうか?それに対抗するために無駄遣いをしてでも予算を確保するという発想が、間違っているはずなのですが、それはいざ縮小すると必要なときになかなか拡大してくれないというシステムに逆らった部分があるからだと思います。
とにかくこの廃用性萎縮という仕組みは、理にかなっている素晴らしいシステムだと思うんです。
ようやく僕の耳の話
本題ですが、えんじろうがテレビの物音を「テレビの音」として捉えられなかったことも、これが働いた結果だと思いました。
15年もテレビと離れていると、音だけで「これは自然の音でこれはテレビスピーカを経由した音」という聴き分け能力が廃用性萎縮を起こす。
人工的音声識別回路
結果普通にそれができている父親から指摘されるというわけです。
逆に考えたら世の中のテレビを見ている大半の人の脳には、自然の音とテレビの音を区別するための神経回路があると思うんです。名付けて「人工的音声識別回路」ってか?
人の能力というか生き物の能力って、本当にすごいなって思います。