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自分を認めてくれる存在

自己承認 

自己肯定 


まるで人類の永遠のテーマのようなこの言葉 




では自分とはなんなのか? 

私は15年ほど自分を探していました。 










他者と比べ 

悲観したり、腹をたてたり、理解してもらおうと尽力したりしてきたわけです。 

自分探しと銘打っては上京し、様々な環境に身を置き体験してきました。 



なぜ、私がそうなったのかは、幼少期より親や兄からの人格否定によるものだ! 

学生になってからも変人と言われる周りのせいだ!!! 

と思っていました。 








いつしか、周りからどう見られるかを気にし、己を殺し、だが、その人には舐められたくないという無駄なプライドを持ち人間関係を築いていくのです。 



いや、そんなもので良好な人間関係を築けるわけがありませんでした。 

それでも私の本質を見抜いてくれ、今では親友と呼べる友人、良好な関係の友達が多くできました。 

  


   




人から否定しかされなかった私は自己を定義するものが攻撃が防御しかありませんでした。 

だって人は信じたら簡単に裏切りますから。 

こちらがいくら尽くしても明日には他人扱いです。 







たまったもんじゃありません。 

ふざけるな! 

当時は何度もそう思ったものです。 








私を認めてくれる人は10年以上誰も居なかったわけです。小学生の頃から。 

では誰が認めてくれるのだろうかと探すわけですが、これが自分探しと言われるものかもしれません。 







己がなんなのか 

何者になりたいのか 








これは人の評価があって成り立ちます。 

そして、おそらくそれは職業的なものであったり、物質的な事象である事でしょう。 








ここで私はある日気がつきました。 












本当に100%認めてくれる人は自分しか居ないのではないかと。 








他者の承認は100%ではありません。 

なぜならばその人にはその人の人生があり、いずれ居なくなるし、認めてくれてると言っても数割は妥協をし、赦し認めているというスタンスをとっているから成り立っています。 










他人というものは完全に操作することはできない 

環境というものは完全に操作することはできない 

己のみが完全に操作できるのではないか? 

そう考えたわけです。 







  


認めるとはなんぞや?と次の壁にぶち当たりました。 

褒める? 

仕方なかったんだと思う? 

これが俺だ!!!と思う? 







どれもしっくり来ませんでした。 

認めるということは、自己の存在の認知だったのです。 




   





私という人間がこの世にいるという事実 

私という人間が歩んできた人生 

そこに善悪はありません 

誰が何と言おうと、それが私であり、私しか体験することが出来なかった最高の想い出なのです。 

それは揺らぐことはありませんし、他人に主張するものでもないものです。 







自分が自分であるという事実。 






これ以上も以下もない。 

そういつしか気がつきました。 

ただ己を抱きしめる。 

永遠の友達のように認めるしかないのです。 

ドジな己も 

スマートな己も 

○×だけではないのです。 

様々な顔があり、様々な事を歩んできた己が今もこうしているわけです。 




  


最高かよ。 

私はそれがわかった時に思いました。 

いや、最強かよ。 

だったかもしれません。 







自己の本来の欲求と他者や環境によって評価された自己認識を混ぜ合わせてしまってはそれは分からなくなります。 





あの人はこうだ。 

というのがいつしか私はこうだ!に変わってしまってる人は多く感じます。 


それは残念なことに他人が決めたあなたです。 






そんな時はふと己に帰れる時間を作り 

他者から離れ 

己の過去を見つめて 

善も悪も抱きしめてあげてください。 





完璧性は他者からもらうものでも、カスタムするものでもありませんからね。 

ナチュラルな己がそこにいれば何も求めずにも自己の完璧性を知ることでしょう。 

それを掴んだ時、内面から人は輝きを取り戻します。 






分かりにくい纏まりのない文章になりましたが、結局何が言いたかったかというと、己の事は己が1番知っているということです。 






今日も皆様に幸あれ 。



心から感謝をここに。
有難う😌

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