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幸せの定義

 幸せの定義。今回のテーマはそれだ。

 書いているのは10月21日。午前4時ごろだ。
暖かいのか寒いのかわからない秋らしい頃合いになってきた。風邪も拗らせやすい季節だろう。これを読んでいる数奇な人たちの健康を祈りつつ、注意喚起をしよう。

 さて、閑話休題として今日のテーマだ。幸せの定義。
前に芸術の定義として同じ様なテーマで語ったことがある。その時とは違い、今回はお話チックではなく僕個人としての持論を語ろうと思う。

前置きが少々長くなったが、幸せの定義。もうすでに三回問いている。
だが僕が明文を避けている。難しいから本能的にごまかそうとしているのかもしれない。
 幸せというのはとても難しく、同時に簡単なようでもある。

 分かり辛い言い方をしてしまったが、簡単に言えば側面だ。
難しい側面もあれば、簡単な側面もまたある。

 では簡単な側面から見てみよう。
それはやはり簡単で、ここにある幸せを自分や他人を通して、比べて、測ってみる側面。
 例えば、アフリカでは60秒に一人が餓死で死に、40秒に一人が病気で死んでいるのに君はここでスマホでこれを読めている。お腹は空いているかもしれないし、あるいは満たされているかもしれない。しかし何日も何も食べずに何も飲まない様な状況ではないからここでこれを読めている。したがって君は幸せものだ。
という様なことだ。

 よく言われる人もいるかもしれない。しかし僕はこの意見は嫌いだ。
なぜなら現実味が無いから。
 目の前で人が死んでいる訳でもなければ、内戦で片足がない男の子のポスターが目の前にある訳でもない。僕ならば「そうですか」で終わってしまう。少し薄情かな?
 でも実際そんなことを言われたってよく分からないだろう。
それを幸せだと思えるのは感受性が強すぎる一部の人間だけで、その人達でさえアフリカの子供が食べているレーションを食べさせればまずいと言って最寄りのファストフード店にでも行くだろう。

 こうして、他人と比べてしまうとどこか現実味がなく実感の無いものが幸せになってしまう。

「あなた、銃撃戦の中で寝なくてすむのだから幸せよ」
と言われたところでなんのこっちゃでござるかとなるのが関の山だろう。
だから僕はこれを幸せの定義とは据えない。ただの詭弁だ。

 では次に、難しい側面を見てみよう。
 それは相対的なものではなく、自己的な、あるいは内面的なものだ。
簡単な方法とは違い、これは行き着くまでも難しいし、行き着いてからの解釈も難しい。
 まず行き着くには自分の置かれている立場や、状況を正しく認識し、自分のしている事も認識しなければ無理だ。
例えば、本を読むことが好きな人がいるとする。その人が「本を読むのは幸せ」と、読むことが幸せに直結していればそれは内面的な幸せとなり、ここでいう難しい幸せの側面に部類される。
 しかしその人が「本を読めることが幸せ」というと大きく意味が変わってくる。
後者だと、「本を読めていない人、もしくは自分と比べて、本を読めている自分は幸せである」と、相対的な評価に変わってしまうからだ。

 つまり、ここでいう幸せとはその行為をすることが幸せ、や、その行為をされることが幸せという場合に限定する。

 ではなぜその解釈が難しいのかという話だが、例えばその本を読むことが好きな人は、本を読むこと以外の幸せを感じていない、気づいていない、もしくは知らないからだ。
 恋人といる幸せ、好きな人に愛される幸せ、そう言った幸せのレベルというか、より交感神経が刺激される様な行為を知らない。

 果たしてその程度、その様な事を幸せと呼ぶのか。本を読んで得られる幸福を果たして幸福と呼べるのか。ここが難しいところで、人によって受け取り方も解釈の違いも大きく、とんでもなく大きく変わってしまう。

 あくまでも僕の意見だが、本を読むことも幸せに入ると思う。幸せは小さなもので、神様みたいなもの。そこにいるし、そこにはいない。信じれば与えられるけれど、信じなければ与えられん。こういうと宗教勧誘臭いが、実際幸せというのは宗教じみている。
 個人の心の持ち様で憎悪とも、幸せとも取れるなんてそんな価値観はやはり宗教と言った方が自然である。

 そして、幸せの定義。本題の本質に戻ろう。
これまでは幸せの種類について書いてきたが、それを踏まえての僕なりの幸せの定義。それは『自分がどれほど充実感を感じるか」だ。

 自分が本を読むことに充実感を覚えず、時間の無駄だったと思うのならばそれは幸せではないし、楽しかったや悲しかったと感情を芽生えさせて自分の時間を有意義に充実させたと思えればそれは幸せなのだ。
 それはご飯を食べることでもいいし、新しいものを開封するときの高揚感でもいい。言ってみれば充実感を得ることができる行為であれば何だっていいということだ。

 ここからは余談だが、幸せとは常に相対的なものではない。

誰かと比べてみたら幸せ、なんてのは社会に毒された人間が自分を正当化したい感情に機縁すると思う。
逆に、誰かと比べてしまったが為に自分が惨めに思えたり、浅はかに思えたりもする。自分の優位性を他の人と比べることで確固たるものにしたい。そういう気持ちが自分の中で生まれているからこそ人と比べてしまうのだろう。

 だから僕はそれを否定する。
幸せとは本来自分の中に、己の中に介在するものだ。人から幸せを得る場合もあるけれど、人を犠牲にして得る幸せなんてのは詭弁だ。

 それが僕の幸せの定義。あなたの幸せを願って。閉じるとする。