エモい
元来、人間のコミュニケーションの4割が言語だと言われている。
残りの6割は目の動きや視線や手の動き、ふとした動作だそう。
だからなんだと言われたらそれまでなんですけど、論理や論旨と違う現実ってよくあると思う。
みなさんもよく分かると思うが、現実は不条理に満ちている。
その中で道理や平等を求めるものがいるが、僕はそれは旗違いだと思う。
なぜなら、人がいる限り矛盾、不条理、不平等なんて当たり前だから。
真理だが在り来りだと言う人もいるだろう。
在り来りを在り来りとしてスルーするからこそこのクソみたいな世の中が出来上がってるわけだ。お前らのせいだ。なんてね。
人が感情というものを得た時、初めての感情は恥じることだったそうだ。
そう、みんな人の目を気にしてる。
自分は普通だろうか。変な目で見られていないだろうか。1人だけ浮いていないだろうか。
これは教育論のせいとも言える。
しかし、人々はマイノリティを求める部分もある。
いざSNSの世界に躍り出ようものなら僕は世界で唯一だと叫びだし、こんな自分イケてるでしょと言わんばかりの傍若無人ぶりを見せてくれる。
個性、個性と言うが、個性を気にしているやつほど個性がない。
みんなの向いてる方向を向いて、みんなの着ているものを着る。
部屋の中では「うみんちゅ」と書かれたTシャツを着ているのにね。
これを2面性と呼んだり、自分を殺してる偉い人と称える文化さえあることに僕は「アホか」と叫びたい。
適応することや順応すること、または愚直にひれ伏していることを成長とは呼べないだろう?
アホくさい。
自分の個性を表に出せない。それは怖いから。人に指を刺されて笑われるかもしれない。人に何を言われるか分からない。人に人に人に人に。
人に。
その、みんなに馬鹿にされるとか、人に笑われるとか、具体的に誰だよ。
そんな存在するかしないか分からないような有象無象に自分を殺されていて恥ずかしくはないのか?
人ばかり気にして自分の個性をSNSで尖っている私、という自意識昇華だけでいいのか?
お前は今何がしたくて、どんなことを考えてるのか。
そういうマインドの部分を人に言えることが、成長と呼ぶのだろう。
文のコミュニケーションだけでは分からない。そんな6割に気付ける人間は、マインドを全面に出しているやつらだ。
文だけを見るな。本質を見てほしい。
だから俺はエモいって言葉が嫌いだ。