満ちる月
一月になり最終週。もう二月に入ろうとしている。
季節はまさに冬。乾燥していて肌に刺すような寒さがついに今シーズンもやって来たわけだ。
しかし今年は暖冬だそうで、寒暖差が激しい印象を受ける。僕の駄文に付き合っていただいている心優しい皆さんも体調管理には気をつけていただきたい。
さて、本文であるが、あなたは人の優しさについて考えたことはあるだろうか。僕は不意に考えてしまうことがある。
優しさとは鋭利なプレゼントみたいなものだ。送られたら返さないといけない。そういう風潮というか、空気がある。
空気。
最近じゃあ読まなきゃいけない、読まなきゃ人でなしのように扱われる空気。その空気に付随して、返さなきゃいけないようになっているのが優しさという一種のジンクス。思い込み。そのプラシーボとは恐ろしいもので、一方的に押し付けただけで成立してしまう。
そして、人間の良心が悪魔をして、その一つの優しさをまるで多額の借金のように感じてしまう。
そんなありもしない架空請求に惑わされた結果が昨今の日本人と日本の状況だ。
見返りのない優しさとはなんだろう。時々、そんな人を見る。また、書いている僕自身自分の行為一つにそんなに見返りを求めていない。
しかし、無性の優しさ、無性の愛なんてものはないと思うのだ。人はみんな見返りを求め人に接する。無意識下にこの行為は自分にとってメリットになるのか、デメリットになるのかを考え、実行する。多くの場合はデメリットがあると躊躇い、何もしない。
だが機械のように簡単に数値化して実行するのではなく、そこに感情が入るのが人間だ。
例えば好意という感情。これはとても興味深く、時に人はデメリットしかない状態でも好意のために直走る場面がある。例えば好きな人がピンチだとか、恋人が窮地に立たされている時だ。男なら、なんて関係なく、プライドなんて関係なく突っ走る人が多いことだと思う。これを読んでいる人にはそういう人が多いことを信じている。
さて、そのデメリットなんて考えずに走る人は無性の優しさなのだろうか。好意という感情はとても難しい。時に暴走を与えるし、憎しみ嫉妬にもつながる。他人や興味のない人に向けられたら気持ちわるいものである。しかし、生きる意志なきものに生きる意志を与え、自己改革のないものに変化をもたらし、チャンスなきものにもチャンスを与える。好意とはそういう不思議な側面も持っている。
優しさの話に戻ると、人を愛することで優しくなったり、優しさを学ぶ人も多いだろう。僕自身そのひとりだった。人を好きになり誰かと付き合うというという行為は違う環境、違う常識、違う優しさを持った人間同士がお互いを思いやり共存生活を送ることだ。その二人には二人なりの違った正解があるわけで、それをお互いに押し付け合うには無理があるわけだ。その無理をどの程度許し合えるかに全てが詰まっていると思うのだが、その違った優しさが致し方ない衝突を産んでしまう。
優しさとははっきりと手に取れないほどの小さなものの積み重ねで、そこには人の努力が詰まっている。その積み重ねを有量と取るか無量と取るかははっきり言ってその人次第。第三者には推し量れぬものであり、無性の優しさがあるとしたらそれは受取手が有量ではないと感じただけなのかもしれない。
悲しきかな、人生における優しさなんてさほどの量分も得ない。そこは誰しもの周知だ。人間誰しも醜さを嫌い、美しさを求む。そんな生きにくい現代社会の荒波を率先して担がんとするのがこの優しさという概念だと思う。それはどこか常識にも似ていて、マナーにも似ている。
常識とは他人と生活する上でお互いが気持ちよく生活できるための人間の行動である。それをどの程度の人間が理解しているか。それがマナーという問題である。優しさも同じように、優しくする側も、される側も気持ちよく生活を送るためのものであると僕は思うのだ。別に優しくなくても生活に困りはしないが、優しくあることで自分や赤の他人、他の人々の生活が少しだけ豊かになる。だから人は人に優しくするのではにのだろうか。
冒頭の話に戻ると、やはり人には無性の優しさなんてないのだろうと思う。しかし、自分の生活を豊にするための自己満足で他人に見返りを求めずに優しく接する人間がいてもおかしくは一切ないのだろう。
僕も、どうか他人に優しく、自分や周囲の人間の生活を少しでも豊かに、楽しいものにできたらと考えよう。